第20話 籠の外へ

 ──コンコン。

 扉を叩く音がする。ヴァンはその音で目を覚ました。鉛のような身体をぐっと起こす。


「おはようございます。クチカです。お食事をお持ちしました」


 扉の向こう側で元気な少年の声がする。ヴァンは重い身体を引きずって、長椅子に座った。それから控えの者に合図を送ると、その扉はゆっくり開かれる。


「おはよう。クチカは今日も早いな」

「ヴァン様、早くありませんよ。もう朝と昼の間です」

「……そうか。どうやら少し長く眠りすぎたようだ」


 悪夢を見る日がどんどん増えている。夢を見るたび、飛び起きて、また眠る。それを何度も繰り返していた。細切れになった睡眠のせいなのか、頭は重く、身体は怠い。

 クチカが皿を持って、ヴァンに近づいてきた。彼が隣に来たことで、『ぐぅ』と腹が鳴る。差し出された皿の上の白い『珠』を急ぎ食べた。四つの珠を全て飲み込み、ヴァンは、ふうっと息をつく。腹もようやく静かになって、心が落ち着いた。

 食事を終え、ヴァンは立ち上がって、執務を行うために自分の机へ移動した。椅子に座ると、クチカが大量の書類を目の前に差し出してくる。


「ヴァン様。こちらの書類は終わりました。王様のご判断が必要なところだけ、ご確認いただけますか?」

「……仕事が早いな。もう終わったのか」


 パラパラと書類をめくり、先ほどクチカの言っていた判断の必要な箇所を読んでいく。一通り目を通して、魔力を込めた印を押した。


「あの……オレは貴方の役に立ってますか?」

「ああ。十分すぎるほどな。ありがとう。助かるよ」

「……へへっ」


 クチカは、ヴァンの机の横に回ると膝をついた。ふわふわの尻尾を大きく振っている。ヴァンは、ふっと笑うと、わしゃわしゃとその白い頭を撫でた。

 クチカは撫でられて、気持ち良いのか、うっとりとした表情を浮かべている。その顔は、今も昔も変わらない。


「そういえば、クチカ。お前に聞きたいことがあった」

「はい。ヴァン様。なんでしょうか?」

「お前、精通はもう済んでいるよな?」

「──はっ?」

「射精したことはあるのか、と聞いているのだが」

「ヴァ、ヴァン様っ! い、い、いいいったい、なんでそんなこ、と」


 目の前の少年は、顔を真っ赤にして、目をキョロキョロと泳がせている。

 相変わらず、嘘や誤魔化しが下手なやつだ。ヴァンは、くくっと笑った。


「誰かと交尾したことは?」

「こっ、こここっ!」

「隠さなくても良いぞ。さぁ、どうなんだ」

 

 クチカは口をぱくぱくさせている。顔を更に赤くして、こちらを見つめた。


「オレは、貴方の家畜です。非常食です。だから、誰かと交尾なんてしませんっ!」

「なんだ。お前、俺に気を遣っていたのか。そこは自由でいいんだぞ。気になるメスがいたのなら、交尾して、子をもうけるといい」

「……ヴァン様……オレのこと、ただの動物だと思ってませんか?」

「ははっ! すまない。つい、お前の反応が面白くてな」


 頭も身体も強くなった。子を残すこともできる。いいことだ。

 正直、身を引き裂かれる思いだが、彼の未来を考えると、こうするしかないだろうな。そう考えたヴァンは、意を決して口を開く。


「クチカ。お前、壁の向こう側にある学び舎に行ってみたいと思わないか?」

「ヴァン様……?」

「ここの書庫の物はもう全て読んだのだろう? あちらなら、ここと比較にならないほどの本がある。それに、壁の向こう側は、人間も獣人もいる。お前の『番』となる者もいるだろう。どうだ? 行ってみるか?」

「…………」


 クチカは頭を下げて、床を見つめている。

 先ほどまで揺れていた尻尾は、その動きを止めた。膝の上の両手は、ズボンをぐっと強く握りしめている。


「オレは、ヴァン様から離れたくないです」

「そうか。その気持ちは嬉しいが、お前の世界がもっと広がれば、お前は美味くなる。俺のために行ってくれないか?」

「……はい。わかり、ました」


 白い頭を、わしゃわしゃっともう一度撫でた。クチカは微動だにせず、ヴァンにされるがままになっている。


「もし、気になる相手ができたのなら、俺のことは気にするな。子を作ってもいい。ただ、お前は俺の家畜。それだけ、覚えててくれたらいいんだ」

「オレに気になる相手なんてできません! だって、だって、オレはまだ──」

「外を見てこい。そしたら、きっと変わる」

「……はい。……ヴァン様が、そう言うのでしたら」


 クチカは膝の上に置いた手を、更に強く握りしめた。ズボンの皺の深さが、彼の心情を表しているように見える。ヴァンは、それに気づかないふりをして、クチカの頭をぽんぽんと叩いた。指をぱちりと鳴らして、控えの者を呼ぶ。


「ブラッドに伝えてくれ。クチカを壁の向こう側の学び舎に行かせる。必要な書類を揃えるようにと」


 控えの者は、うなずいてスッと消える。

 クチカは、ヴァンの手が頭から離れると立ち上がった。机の上にある王の印が押された書類を綺麗にまとめて、小脇に抱える。


「オレもブラッドさんのところへ行ってきます。これを届けてきます」

「悪いな。頼む」

「……はい」


 クチカは耳と尾を下げ、しょんぼりとした様子で、部屋を出て行った。

 ヴァンは、ふぅとため息をついて、天井を見上げる。


「俺の理性がある内に、お前は……」


 小さな声で、願いをぽつりと呟いた。その声を聞く者は、自分だけ。


 そうして、三カ月後。クチカは無事、壁の向こう側の学び舎に行くことが決まった。彼を手放したくない気持ちと、安堵の気持ちが入り混じって、ヴァンは顔を覆ったのだった。

 

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