第9話 番と絵本
「番か。ああ、知っているが……それがどうかしたのか?」
「魔人や魔族……『魔』の方々にも、番ってあるのでしょうか?」
「あるにはあるな。その感覚がないのは、人間くらいだろう」
「そ、そう、なんですね」
クチカが、突然モジモジしだした。頬も少し赤くなっている。
「そ、その……異種間でも、あるのでしょうか? ボクは半獣なので、人間と獣人の間で成立することは知っています。お母さんがそうだったから……」
「お前の言う異種間、というのは、獣人と魔の者の間に番が成立するのか、ということでいいのか?」
「そ、そうです! そうです!」
クチカは頭をぶんぶんと縦に振る。
「そうだな……まぁ、ゼロではない。あまりたくさんではないがな。ゼロではないぞ」
「わぁ! やっぱり、あるんですね!」
両手を合わせて、クチカは喜びを表した。尻尾を大きく左右に揺らす。
クチカは長椅子から立ち上がると、部屋の角にある棚に駆け寄り、一冊の本を手にして戻ってきた。
「ヴァン様はこの本をご存知ですか?」
「ん? どれ──」
そう言って差し出されたのは、一冊の本。
それは幼い頃、母が何度も繰り返し、自分に読み聞かせた──あの絵本。
「僕、これを書庫で見つけたときに、もしかして『魔』の方々にも『
クチカの声が、だんだん小さくなっていく。最後ほうは聞き取れなかった。
ヴァンは、彼から受け取った絵本をじっと見つめ、小刻みに震える手で、中をめくる。ページをパラパラとめくるたびに、幼い頃の記憶、母の記憶がよみがえった。
(……間違いない、あの本だ)
ヴァンは長椅子から立ち上がった。
そして部屋の扉に向かって、大声を張りあげる。
「ブラッド! そこにいるか!」
ガチャリと扉が開いて、ブラッドが部屋の中に入ってきた。
そして、ヴァンの前に来て
「お呼びでしょうか」
「これはどういうことだ」
絵本をブラッドの前に投げた。ブラッドはそれを拾い上げ、確認するとヴァンを見上げる。
「こ……れは、どこに?」
「クチカが書庫で見つけた。全て処分しろと命じていたはずだが?」
「書庫で? そんなはずは……。いえ、しかし、この本がこうしてここにある以上、漏れがあったようです。申し訳ありません。もう一度、調べ直します」
「……そうしてくれ」
ブラッドは本を抱えて、部屋を出て行く。ヴァンはふぅと息を吐いて、振り返った。クチカは小さく震えながら、こちらを見つめている。
「あの……もしかして、ボクはなにか……」
「ああ、お前のせいではない。すまない。怖がらせてしまったな」
ヴァンはクチカの元へ戻り、隣に座った。柔らかな白い髪に手を置いて、その頭を撫でる。
(王の話──それはお前は知らなくていいことだ。お前だけは知らなくていい)
癖のある髪。触り心地が良く、つい何度も撫でてしまった。クチカは撫でられるのが気持ち良いのか、ほぅと息を漏らす。
「あの本を読んだと言ったな」
「は、はい」
「忘れろ。忘れてくれ──頼む」
「ヴァン……様……?」
ヴァンはクチカの肩口に顔を
(……クチカは気づいてしまっただろうか?)
唐突に、自分の胸へ不安が訪れる。じわじわと広がる不安に呑まれないよう、更に腕に力を込めた。
「ヴァン様、苦しいです……」
「…………」
(ああ、愛しい、お前が愛しい)
気持ちが溢れ出る。
大事にしたい。番というものは、こんなにも愛しい気持ちが生まれるのだと初めて知ったんだ。共にこの幸せな時間をずっと過ごしていきたい。
このまま、このままずっと──……
**
『番』──自分の運命と共に生きる。幸せになる。
そうであったら、どんなに良かっただろう。
自分も他の者達と同じだったら良かったのに。
魔の王は、自分の
愛しくて仕方がない。その一方で、心臓を食べたくて仕方がない。
番の心臓を喰らえば、一生飢えとは無縁でいられる。
そして、王は悠久の
**
雷鳴が轟き、大粒の雨が降りそそぐ。
また、悪天候の日々が訪れた
食材が魔城に入ってこない。
ヴァンの腹が、また『ぐぅぐぅ』と鳴りだした。日に日にそれは大きくなり、魔獣の唸り声のような不気味な音が、絶えず響いていた。
ただひたすら、ベッドの上で腹を押さえ、耐える。そのとき、コンコンと扉を叩く者がいた。
「……ヴァ……王様。クチカです。大丈夫ですか?」
クチカの声にハッとする。なぜだ、なぜここにいる。ブラッドはどうした。あいつに言っておいただろう。絶対に部屋に近づけてはならないと。
(ああ、食べたい。食べたい食べたい食べたい。その心臓を喰らいたい)
暴走しそうな心を、奥歯を強く噛んで引き留める。理性が焼き切れそうだ。
ヴァンは必死になって耐えた。
「だ、いじょうぶだ。心配ない。お前は部屋に、戻りなさい」
「で、でも……」
「いいから、戻りなさい」
「ボク、心配で──」
「いいから戻れ! 何度も言わせるなっ!」
扉越しでも、クチカがびくりと跳ねたのが、気配でわかった。そして、小さな足がぱたぱたと去って行く音が聞こえる。
(そうだ。離れろ。離れていてくれ。お前が近くにいては、この腹は我慢がきかなくなる)
ベッドから、のそりと降りる。ヴァンは控えの者に声をかけた。
「……支度を。壁を越えて、町へ行く。食材が入ってこないのであれば、自分で行ってくる」
控えの者はペコリと頭を下げて消える。そして、くたびれたのマントと少し薄汚れた服を持って現れた。
「ブラッドに伝えよ。数日留守にする。任せたぞ、と」
そう言って、ヴァンは支度をすると外に出た。
暴風雨の中をひたすら歩く。歩くたびにぐぅぐぅと腹が悲鳴をあげる。
しかし、雨風のおかげで、その音もいくらか和らいで聞こえた。
壁からほどほどに近い町へ立ち寄る。
ヴァンは、一直線に奴隷商店を訪れた。
「店主よ。一番安い男の奴隷をひとりくれ」
店主に十二バルを支払うと、ヴァンは男の奴隷を連れて、壁の手前の森に入った。
ほどほどの所で、ヴァンは立ち止まり、その奴隷を殺す。
腰の短剣を引き抜いて、脚の付け根に突き立てる。袋を裂いて、血に濡れた『珠』を取り出し、ギチュッギチュッとそれを食んだ。
(ひとりでは足りないか……?)
いつもであれば、ひとり分で満たされる腹が、ぐぅと音を立てる。
腹が少しずつ誤魔化し切れなくなってきたのかもしれない。
運命の人が近くにいることで、ずっと刺激されているのだ。仕方がないともいえた。
「まぁ、待て。まだだ。少しは待つことを覚えろ」
腹をポンポンと叩くと、ヴァンはまた歩き出した。
違う町を目指して、森を後にする。もうひとり奴隷を買って、『珠』を食べたら、城へ戻ろう。
**
「よお、お兄さん。その手に持った荷物、全部置いていきな」
次の町へ向かう道中で、見知らぬ男が立ちはだかった。キヒヒと笑った口から覗く歯は、数本欠けている。後ろを振り向けば、男の仲間が二人立っていた。どうやら囲まれてしまったらしい。
彼らは、一人で旅をする者を狙う、追い剥ぎ達のようだ。皆、ぼさぼさの髪に伸びきったひげ、着ている服は首元や袖が擦り切れており、薄汚れている。
(……隣町まで行く必要がなくなったな)
ありがたい。しかも、一人だけじゃなく三人もいる。
これならまたしばらくの間、腹が持つだろう。
ヴァンは力を解放して、紫煙を身体に纏わせる。惚けた男達は、ふらふらとヴァンのあとをついてきた。
森の奥深くまで連れて行き、男達を殺す。先ほどの奴隷と同じように、短剣を脚の付け根に突き立て、袋を切り落とし、中から『珠』を取り出してギチュッと食べた。
ヴァンは食事を終えた後、水源を求めて歩き回った。小さな泉を見つけて、そこで軽く血を洗い流す。
(そういえば、俺の頭の角を見られたのは、こうやって洗っていたときだったな……)
目を見開いたクチカの姿を思い出した。ゴワついた耳や尻尾が懐かしい。
ヴァンは、くくっと笑った。
(──ああ……たべたい。愛しいお前をたべたい)
自分の心に呼応するように、満たされたはずの腹は、もう一度『ぐぅ』と鳴るのだった。
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