第2話 奴隷
夢を見た。とても懐かしい夢だ。
幼い頃、母が絵本を読んでくれた夢だった。
王様のお話は、何度も、何度も読み聞かされ、その内容は今でもハッキリと覚えている。怖いからやめて欲しいと頼んだ夜も、もう嫌だと泣いた朝も、母は何度も聞かせ続けた。
(……寝ていたのか)
葉と葉の間から
旅の途中、歩き疲れて、街道から少し離れた丘にある大樹の根元に腰をおろした。そのとき吹いていた風が、あまりにも心地良くて、ついその場で横になる。目を閉じ、さわさわと揺れる葉の音を楽しんでいたら、どうやら、そのまま寝たらしい。
背伸びをしている途中でハッとする。慌てて、自分の横に置いたはずの麻袋の存在を確認した。あった。良かった。この袋を誰かに持って行かれたら、無一文になってしまうところだった。
誰もここを通らなかったのか、通っても盗みを働くような輩ではなかったのか、どちらにせよ有り難い。盗まれていなくて本当に良かったと、ヴァンは、もう一度安堵した。
陽は大樹の真上まで昇っており、自分の腹がぐぅと音を立てる。
「もう昼か……」
立ち上がって、身体をぱんぱんと叩く。
背中や尻についた草や木の葉を払って、頭に巻いたターバンが、ずれていないことを確認すると、丘を下って目の前の街道へ戻る。そしてこの道の先にある町を目指して歩き始めた。
『ぐぅ……ぐぅ……ぐぅ』
歩くたびに腹が鳴る。少し黙っておくことは、できないのだろうか。
空っぽの腹をさすりながら、半時ほど歩いて、ようやく町に着いた。
王都へと続く道の途中にあるこの町は、たくさんの人で賑わっている。
屋台も多く出ており、そこかしこで鼻孔をくすぐる良い匂いが漂ってきた。
(ああ……腹が減った)
ヴァンは自分の腹をひと撫でする。
ぐぅぐぅと鳴る腹を満たすべく、奴隷を扱っている商人の店へ足を向けた。
**
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
丸い眼鏡、口元にはピンと伸びたひげ。そして少し腹の出た男が、声をかけてきた。警戒を含んだその声色には、『お前は本当に客なのか』という問いが含まれている。
(警戒されても仕方がないか……)
今の自分の姿といえば、白いはずの服は薄汚れているし、背を覆った紫色のマントもくたびれている。
とても奴隷を買えるような客には見えない。むしろ、自分が奴隷だと言われた方が納得する者も多いだろう。
「男の奴隷がひとり欲しい……出来るだけ安い者がいい。誰かいないか」
「男ですか。安価な者だと、獣人で病を患っている者、または腕、足を失った者になりますが……」
「かまわん。それでいい」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店主の男の声色が変わった。お荷物を処分できると、どこか嬉しそうな声だった。少しすると、お待たせしました、と店主が戻ってくる。
「こちらへどうぞ。五人ほど集めてみました。お客様のお眼鏡にかなう者はおりますかな?」
店主はにこにこと笑い、両手をすり合わせて揉んでいる。ヴァンは店主を
首輪と足に鎖をつけた者達が五人、そこに整列させられている。
片足を失くした者。目の見えない者。ずっと咳をしている者。ぶつぶつとなにかを呟いている者。そして──やせ細った半獣の子ども。
「店主よ。この子どもは……?」
「この子は、ここで生まれた半獣です。先日、親が亡くなりましてねぇ。育てられる者がいないのですよ」
ヴァンはじっとその子どもを見つめた。年の頃は十、といったところだろうか。顔立ちや身体つきは人間だが、耳と尻尾が獣であることを表している。薄汚れてごわついているが、髪の色は白色で、癖のある毛並みをしている。彼の瞳は空を思わせるような透き通った青だった。
子どもの瞳と自分の瞳が宙でぶつかる。
ドクン、ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
身体の中を駆け巡る血が熱い。沸騰しそうなほど、
──この子。この子だ。この子が欲しい。この子この子この子この子この子。
今すぐここで飛びかかりたい、と強い衝動に駆られた。ギリギリと奥歯を食いしばり、すんでのところで抑え込む。ヴァンは、子どもを指さしながら、店主のほうに顔を向けた。
「……店主よ。この子にする。いくらだ?」
「この子は二十バルになります」
「二十バル……安い者、のはずでは?」
「安価な者の中でも、この子はまとも方なので……」
土壇場で値を釣り上げたな、とヴァンは察した。
二十バル。買えない値段ではないが、手持ちが少ない自分としては、少しでも出費を抑えたい。
「……十五バルではどうだ?」
「お客さぁん。それは聞けない相談だ。二十バルです」
どうやらこの店主は、こいつは奴隷の相場を知らない奴だ、と侮っているらしい。難ありの奴隷の相場は十二バル程度だ。十五バルでも正直高い。
ヴァンはふぅと息を吐いた。
「店主……先ほど、この子はここで生まれたと言っていたな?」
「ええ。そうですね」
「ならば、国に届け出はしてあるのか?」
「それは、もちろん」
「そうか。では、確認しても問題はないな?」
「…………」
店主との間に沈黙が降りた。丸い眼鏡がキラリと光る。店主はまた揉み手をして、ヴァンに声をかけてきた。
「ややっ! 私としたことが、どうやら値段を間違えていたようです。すみません。お客さん、この子はどうやら十五バルだったようですねぇ」
「十バル」
「…………」
「十バルだ」
「……分かりました。それでいいでしょう」
交渉成立。ここの店主はどうやら話が分かるようだ。
ヴァンは麻袋の中から金を取り出し、代金を渡す。店主は渡された金を目の前で数えた。確認した金を懐に入れると、腰に提げた巾着から鍵を取り出し、子どもの足の鎖を外した。そして、痩せた背中をトンッと押す。
「今日から、この方がお前のご主人様だ。ほら、ご挨拶しなさい」
「よろしくおねが……いします」
空色の瞳を持った子どもは、ぺこりと頭を下げた。少し怯えながら、こちらへ近づいてくる。
「店主、いい買い物ができた。またこの町に寄ったときには、利用させてもらおう」
「……分かりました。お買い上げありがとうございました」
ヴァンは子どもと一緒に店の外へ出た。子どもは、陽の光が眩しかったようで、顔をしかめ、目を細めている。
(……
そう思ったヴァンは、マントを扱っている店を目指すことにする。少し歩いたところで、自分と子どものお腹が同時に『ぐぅ』と鳴った。ふり返って子どもを見ると、慌ててお腹を押さえている。
(その前に、まずは腹ごしらえだな)
ヴァンは踵を返して、来た道を戻ることにした。子どもに向かって、こっちだ、と指さしをして、屋台のある方角へ歩いて行くのだった。
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