酒場で聴いた話③/怪物の世間を見る方法

 この話を思い出したきっかけは、先刻スーパーに買い物に行った際、またも幻覚に囚われる経験をしたからである。

 一度此処に、アレは幻覚であると書き記す儀式を行いたい。

 怪物を見る方法を教えてもらったのは、だいぶ昔のことだった。

 私は小学生くらいの少年に、怪物を見る方法を教えてもらった。


 少年は親の付き添いで居酒屋に連れてこられたようだった。しかし何か不満そうな表情を湛えるわけでもなく、静かにソフトドリンクと唐揚げやポテトを摘まんでいた。

 彼は三人の大人と共にテーブル席に着いていて、初めの方は穏やかに食事を楽しんでいたように思われた。

 しかし酒が回ってくると大人たちは大きな声で様々な談義をし始めた。上司がどうだ、税金がどうだ、丸切り気の滅入る話が居酒屋に轟く。

 その辺りで少年は大層つまらないと言った感じでメニュー表を隅から隅まで読み始めていた。彼がもしスマートフォンやゲーム機などを持っていれば、もう少し退屈しなかったのかもしれない。

 けれどもあの瞬間、彼は一人ぼっちであった。

 そう思っていたのは私だけだったようだが。


 私がある程度酒に満足して、用を足そうとトイレに向かうと、トイレの外の手洗い場に件の少年が立っていた。

 唇をひん曲げ鏡を見つめる少年に、不審者は話しかけた。恐らくは酒のせいで気が緩んでいたのだろう。

「一人は寂しいか」

 見上げて、少年は首を振った。

 私はそれを強がりだと思ったし、別にそれを悪いことだとは思わなかった。彼にもまた、彼だけの張りたい意地がある。ならば私がそれを邪険にしたところで、何か献花になるわけでもあるまい。

 しかし私は勘違いを犯していた。

「一人じゃない。そこにいる」

 少年は言った。

 私はその瞬間、大層面白い心地になった。怪談を蒐集してから少し経って、丁度知り合いには聞き尽くしたあたりだったからだ。もし彼には見えない友人がいるのだとすれば、それはとっても興味深い。

 そんな浅はかな心地で訊ねた、「どういうことだ?」という問いは

 少年の薄ら笑いにいとも容易く冷やされた。

「物があるでしょ。それが全部生きてるの」

 酩酊に揺れる頭蓋では理解し難かった。しかし少年が視線を縦横無尽にゆっくりと放り投げだした辺りで、ふと雷土が首に落ちる。

 なるほど子どもというものは想像力豊かである。

 八百万の神々という思考に近しく、彼には世界のすべてのもの一つ一つに命が宿っていると考えているのだ。つまり彼の世界には無数の命が渦巻いていて、それだけの生涯が在って──同時に終わりもある。

 彼の世界がそこまで冷たく物を見ているかどうかはさて、わからないが、私は考える。

 夜道の過程に自販機がある。白い光を放ち、足元は頑強な金具で接着と固定が為されている。彼は何処にも行けないし、同時にその中の缶ジュースもまた何処へ行くことも出来ない。

 そうして何時しか、ふらと現れた人間に缶ジュースは攫われて、その中身を奪われゴミと為る。この全ての過程一つ一つに命を見出しているのだ。

 私は唾を呑み込んだ。目の前の少年の思考が恐ろしくなった。

 洗面所には石鹸があった。手拭き用のペーパーがあった。そしてゴミ箱、水滴とスポンジ。埃の積もった電灯。その全てに意が在って

 この瞬間私を見つめている。

「怖いことを考えるね」

「そうかな。じゃあね」

 少年は何でもないような顔で元の席に戻ってゆく。

 彼の世界の恐ろしさには、全くの無自覚のようであった。


 その邂逅があってから半年くらいの間、私は散歩をするたびに命の幻覚を見た。

 立ち並ぶ家々の目と鼻と口の位置が、なんとなくわかるようになって、木々のざわめきはなに故か文句に聞こえた。蝉の声に一層寂しくなって、秋の蟲の声に怯えた。

 月は瞼の無い瞳だった。

 夜空はしっとりとした肌だった。

 あの頃の私は、もっとも病に近しかったと思う。

 




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