酒場で聴いた話②/警備バイト/獣の鼻息

 絶対に家に入れてくれない友人がいる。

 正確には『昔は入れてくれたが今は入れてくれなくなった』と言うのが正しい。

 別に私が彼に対して何かをしてわけではなく、むしろ私はそうするように促した側である。彼の心境に明確な変化が在ったのだ。

 彼はある一時を境に、自宅への訪問者を絶対に招き入れなくなくなった。

 その契機となったのが、彼が派遣で送り込まれた警備員のバイトであった。


 彼は私と異なり酒は好まず、服や旅行に金を注ぎ込むちゃんとした大学生である。しかし私の友人ということはつまりはロクデナシということでもある。

 彼のロクデナシ足る由縁は、その金遣いの荒さに在る。

 自慢げに見せつけてきた福福実った預金通帳が、数日後には恐ろしい低空飛行に落ち着いてる場面を既に五度は体験した。その度に私は彼を諫めるのだが、絶対に反省しないものだから、多分彼は一生こうなのだろう。

 けれども面白いことに、金遣いが荒い分、稼ぎ方も心得ているようで、幾多のアルバイトを経た結果、彼は楽な仕事を選び取る能力には人一倍長けている。

「この前のパチンコ屋は最高だった……」とうっとりと語る彼は大層キモかった。聴く話に依れば三十分働いて三十分休憩という超過密スケジュールを複数人でこなしたらしい。しかも働くと言っても整理券を配ったりアイスを売りつけたりするだけであって、その殆どは座り仕事だったと言う。ついでにアイスは食べ放題。それで日給約一万だと言うのだから、憤懣やるかたない。

 私は憮然とした表情でその話を右から左と投げ捨てて酒をすする。

 彼は冷やを飲み干して、店員さんに「おかわり!」と元気に笑う。店員さんも苦笑いした。なんか頼め、何でもいいから。恥ずかしい。

 などと調子の良い男だが、そんな彼が一つ、完全に失敗だったと断言したアルバイトがある。

 先述した警備員の仕事である。

 あの時の彼は憔悴しきって見る影もなく、その後数週間、彼の預金通帳は下落の一途を辿った。あんな風でも浪費癖は治らないのだから真性である。

 彼が夜間警備のアルバイトに回されたのは、一年前の夏であった。

 河原町に在る、某有名デパートの夜間警備を任されたのである。

 彼の業務は一時間ごとにフロアを巡回するだけで、それ以上の仕事は特にない。業務の開始は午後十一時からで、巡回は朝方まで続けることになるが給与は上々。なるほどこいつぁ楽な仕事だぜ、などとと一目散に食いついたハイエナは、後に痛い目を見ることとなった。

 そのデパートは七つの階に分かれていた。婦人服のフロアや雑貨のフロア、本やおもちゃのフロアなど、その種類は多岐に渡る。伊達に全国展開していない。

 彼は語る。最初は楽しかったのだ、と。

 営業時間外のデパートなんて中々入れないし、だだっ広い空間に自分一人というのは、何やら妙な解放感があったと言う。その空気もあって彼の因果の雫はまるで泉と溜まっていったのだ。

 河原町の辺りは結構な都会で、午後十一時頃ならまだまだ元気なエリアであるから、多少賑やかな雰囲気も手伝って、彼は余裕綽綽と一度目の巡回を終えた。軽い肝試し程度の心地だったと言う。

 しかし二度目、三度目と繰り返してゆくうちに夜も深まり、一つの衝動が彼の中で膨れて行った。

 便意である。

 熱帯夜を警戒して水をたらふく詰め込んだのが悪かったのか、冷房で冷やされたのが悪いのか、彼の膀胱は著しく限界に近づいていた。

 しかしこのアルバイトには、一つだけ規則があったと彼は語る。

 青い顔で語る。

 警備員は、一階のトイレしか使用してはいけなかったのである。

 

 それがなに故であるのかは後に明らかになるので今は割愛するが──不味いことになった。彼は一階の受付室を待機する拠点に据えて、一階から昇ってゆく形で警備の巡回を行っていたものだから、トイレは随分と遠い。

 人目がないのを良いこと、股を抑えて不格好な姿勢で階段を駆け下ったと言う。

 ──幸い大惨事は免れ、トイレに辿り着き明かりを点けたその瞬間、彼は不可解な光景を見たと言う。

 そのことを語る時、彼は頭を抱え、ぶつぶつと「ああ、あん時帰ってりゃよかったんだ」と自らを諫める。彼のそんな様子は中々見ないものなので、面白くって私の酒もぐいぐい進んだと記憶している。

 彼が見た光景とは、なんのことはない。

 個室に鍵が掛かっていたのだ。

 初めは自分の他にも警備員がいたのだろうか? だったらまずったな、めっちゃ大声で歌ってたぞ。などと一種気楽な焦りに身をやつした彼であったが、どーもと声を掛けてみても無反応で、個室からはただ細い鼻息が聴こえてくるばかりであることに気づくと、妙に嫌な気分になってさっさと用を足して仕事に戻ったと言う。

 きっと腹が痛かったのだ、と自分に言い聞かせた。

 そして部屋に戻り、貰ったバイトの資料を読み返して自分以外の人員がいないことを確認すると、やっぱり妙な気分が足元から立ち上ってきて、しかし考えても仕方ないとしばし寝ることにした。

 そして数十分後目覚ましに起こされて、意気揚々と水分を補給した。

 故に五度目の巡回を終えた頃、またも膀胱は限界に近づいたと言う。

 先ほど申し上げたが、こいつは真性のバカの自己中である。しかも今の自分が良いならこれから全ても万事おっけーという刹那的快楽主義の化け物でもある。

 故に御嘲笑いただいたい。

 これから彼が辿る悲劇は、友人の目からしてもあまり愉快なものではないが、せいぜい笑ってやって欲しい。

 

 股を押さえつけながら、静寂と暗闇の満ちる荒野をひょこひょこ歩く。最早お前が怪談であると言いたくなるが、今夜ばかりは譲歩しよう。

 そして今までの倍以上の時間を掛けて五度目の巡回を終えると、彼はもうどうしても我慢できなくなった。しょうがないので一階の利用を許可されたトイレに駆け込む。

 そして明かりを点けようとして、絶望した。

 そのデパートのトイレの電気は、恐らく午前一時ごろに切れるようだった。

 彼は完全な暗闇の中、懐中電灯でトイレの中を照らす。

 そして震え上がった。

 先刻と同じトイレの個室にはまだ鍵が掛かっていたのだ。よく叫び声を出さなかったと自分を褒めて、けれどもそんな些細な賞賛はその瞬間何ら意味を持たなかった。事実として膀胱がヤバいのである。

 彼は生唾を呑み込み、なんとかその個室から最も遠い小便器で用を足そうとする。懐中電灯を口に咥えながらチャックを降ろそうとするが、どうも震えで上手くいかない。

 背後の個室から聞こえてくる鼻息は、先刻よりずっと激しく鳴っていたと言う。

 嗚呼これが、例えばクソくだらねえ変態ならばどれだけマシかと空を仰ぎ、けれどもなに故か、彼にはその者が人間ではないということが実感されていたのである。五時間も六時間も同じ個室に居座り続けるこの妖怪の鼻息は、どうも整頓されたリズムに従っているけれども、ただそれだけである。どういうことかって、まるで彼にはその音が人をなぞっているように思えて仕方がなかったのだ。

 そうして頭の中で昔習った般若心経を一心不乱に唱えながら用を足し終えると、彼はその後の巡回をサボり、部屋の隅で一人震えていたと言う。

 

 眠れぬ夜を過ごし、少し落ち着いてくると、彼はなんだかバカらしくなったと言い出した。

 バカはおめえだと言いたかったが、そこも黙って頷いて見せた。すると彼は神妙な面持ちで続ける。

「いやさ、流石に怖がり過ぎだろって。だってなんの危害も喰らってないんだぜ? なのにビビったまんまじゃあ、ダせえじゃん……」

 竜頭蛇尾と語気は落ち込んでから彼は語る。一つ、疑問が生まれたのだ。そういえば──何故他の階のトイレは使用禁止なのだろう?

 一度頭に浮かんだ問は、どうやっても落ち着いてはくれなかった。そうだ、そうではないか。何故律儀にそんなものを守って怖い思いをしなければならないのだ。そうだふざけるなと虚勢の半笑いを貼り付けながら、彼は憤って階段を駆けあがる。

 そうして使用禁止とされる二階のトイレに殴り込み、懐中電灯の真白い光を照射した。

 すべての個室に鍵が掛かり

 最早騒音公害とばかりに、獣の息が響き渡っていたと言う。

 

 彼は絶叫と共に走り出し、今度こそと受付室に籠り切りになった。

 そして朝方、自らの呼吸音が正常であることを確認すると、そのバイトはそこで終わりにしたいという申し出の電話を掛けた。

 全く問題もなく途中で辞められたことも、今考えると何かおかしいと彼は語る。


 して、彼が人を我が家に入れなくなった理由である。

 その事件の二日後のこと、そろそろ恐怖も薄まってきた頃である。眠れなくって夜更かししていた彼に対して訪問者が現れた。どん、とドアを一撃重く叩かれて、首を捻る。

 誰かが訪ねてくるような予定も無かったので、頭にクエスチョンを浮かべながら、彼は気楽にドアを開けようとした。

 そしてドアノブを握った瞬間聞こえた音を、彼は生涯忘れないと言う。

 荒々しい獣が、餌を求めるように吹く鼻息──

 彼はその場で横転し、道中の家具全てをなぎ倒しながら自らのベッドに潜り込んだ。

 朝が来るまで始終、身体の震えは止まらなかったと言う。

 そしてそのことを相談されたのが、その数日後、彼と酒を飲んだ日のことである。

 お前こういうの詳しいだろと言われて、いや別に知らんと突き放せるほど良い性格をしているわけでもなかったので、その辺りの曰くを調べてみたが、とんと当て嵌まらない。地鎮祭もしっかりと行われている記録があったし、周辺の神社も十分に清浄な場所だ。

 曰くの無いものが最も恐ろしいとは、こちら側の常識である。

 対処のしようが無いものには、ただ貪られるだけになる可能性だってある。

 だから私に言えることは一つだけだった。

「少なくとも、自ら招き入れるようなことは絶対にするな。誰であっても叩かれたドアは開けない方がいい。テレビの集金や宗教勧誘も避けられてお得だ」

 彼は一年ほど経った今でも私の教えを守っている。

 救いようのないバカではあるが、律儀な男なのである。

 ──しかし金が溜まったら御祓いに行くと豪語してそろそろ一年経つので、やはり救いようのないバカだ。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る