晴天下骸美人/八方睨みの龍/天龍寺他

 芸術に秀でた友人がいる。

 彼と出会ったのは大学二回生の冬、酒が飲めるようになったことが嬉しくて、色々な居酒屋を練り歩いていた時のことであった。

 近場の店はだいたい攻略したので、少し遠出をしてみようとバスに乗って四条の辺りまで赴いた。

 そうして意気揚々と新しい店のドアを開けた私の視界にて異様なほどに尖っていたのが彼である。

 目尻と眉は天を衝かんと尖り、化粧を施した顔面は明らかに堅気ではない。耳の風通しもだいぶよく、よく「ああ?!」と聞き直す。

 絶対にロクでもないと確信したので意気揚々張っていた背中は落ち込み、彼からだいぶ離れた席で飲んでいた。

 のだがいつの間にか打ち解けていたのだから不思議である。正直あの辺りの記憶は曖昧である。随分気持ちよく飲んだようだった。

 彼はジンと呼ばれていた。

 因みに偽名である。曰く酒場で本名出す莫迦が何処にいる、とのことであった。当時精神を酒に侵されていなかった私は京都は怖いところだなあ、とか阿呆のように口を開けていた。

 だから彼に関して明確であったのは、近くの芸術大学の生徒であること(学生証の写真は割とおとなしかった)、私よりも一つ年上であったこと、気性が荒かったことだけである。

 私と彼は連絡先を交換しなかったので、会うのは本当に偶々、その周辺の酒場に私が赴いた時のみであった。

 私は癖の強くない酒ならば何でも好んだが、むしろ彼は濃いものばかりを選んだ。アルコール度数は二十度ほど無いと飲んだ気がしない真性の飲んだくれである。

 彼の話はしようと思えばいくらでも出来てしまうのでこの辺りで区切りたい。

 初めに述べたが彼は芸術に秀でており、様々な作品を制作していた。彼が創るものはほとんどが立体作品であった。彼は石や木を彫る際、魂を削るようにのめり込むので作り終えると頬がこける。一目見て元気がないとわかるときには大抵完成させた直後となる。

 何度か彼の作品を視させてもらったことがあるが、残念ながら私に彼の作品の良さはわからなかった。しかし学校での評価は上々だったらしい。眉唾物ではあるが通説に依ればIQが20違うと話が通じないらしい。どうも私と彼の間には芸術的センスが二割ほど異なっていたのかもしれない。

 だがその凄まじい作品の有様に、気分が悪くなることはそれなりにあった。

 

 冬に出会ってから半年ほど経ったある夏の日、彼の頬が多分にこけていたので、「ああ作品を完成させたな」と思い、労うために同席する。しかし彼は目玉と口を天井へ向けて全く動かない。

 死んだか? と思い顔の前で手を振ってみると、授業中に居眠りをする生徒のようにガクンと首を下ろした。明らかに平常のジンではなかった。私は多少心配になって話を訊いた。

 スランプであった。

 夏バテと併発したのだろう。生きる気力がまるで湧かんとボヤく彼は、珍しく酒を飲んでも調子は全く変わらず、声のトーンも落ち込んだままだった。その日は珍しく彼と飲んでも楽しくない日であった。

 それからまた四季が一つズレるまで彼と会うことは無かった。

 私は何度か件の酒場に赴いたのだが、彼が訪れることはなく、店員に訊いても最近来ないとのことであった。


 だから彼と再会したときには、お互いに死ぬほど飲んだ。

 彼が酒場に来なくなって、私もそこに行く足が遠のいた。丁度レポートの時期であったことも関係していた。

 死屍累々とレポートを書き終えて、気晴らしにしようと件の居酒屋を訪れた私を出迎えたのは、初めて会った日と同じように視界の中尖り散らかした彼の姿であった。

 メニューの端から端まで頼むという遊びをして、酩酊泥酔内臓の反転を経て我々は明け方の閉店時間まで飲んだくれた。

 彼の頬は一切こけていなかった。むしろ健康的過ぎて、彼には相応しくないと思うレベルであった。だから私は、きっと作品を完成させたのではなく良いことがあったのだろう、旨い酒を見つけただとか、デカい賞を取っただとかそういったことだと考えていた。

 そのことについて先に口を開いたのは彼の方であった。

 閉店時間を過ぎて、お互いに肩を組みながら薄っすら明るい四条の町を歩く中、彼は大口開けて叫んだ。太陽に向かって叫ぶようであった。

『史上最高傑作ができた』、と。

 意外であった。

 作品を完成させた後には殆ど例外なく憔悴する彼が、ここまで健康的に作品を完成させたと言うのか、と驚いた。今思えば失礼な話である。

 夏バテで自分を労わった結果、長い時間をかけて制作に取り組めたのかもしれない。彼の仕事は基本的に特急であった。ただし手を抜くことはしないので、終える頃には魂もすっぽ抜けるのである。

 作品の名は『セイテンゲムクロビジン』と言った。なかなか聞き取れなくて何度も訊き返したので恐らく合っていると思う。私は勝手にタイトルのような漢字であると思っているが、事実は不明である。

 当然のことであるが、私はその作品を見たいと言った。

 てっきり歓迎されると思い込んでいた私に、しかし彼は何も言わなかった。

 唐突に鳩尾を殴られたような、痛々しい表情が在って、私は彼のそのような顔は見たことがなかったので、不味いことを宣っただろうかと一瞬引く。

 しかし直ぐに彼は切り替えるように了承し、共に彼の所属する団体の持つアトリエのような会場へ向かうこととなった。


 三条→四条は、バスに乗っていて感じるがなかなか距離がある。しかしその長い距離の間を私たちは何も喋らずに歩き切り、商店街と逆の方向へと足取り重く歩いた。

 そのアトリエはビルの三階に在った。芸術家肌には朝も夜もないのだろう、二十四時間開放されていて、一通りの家具は設置されている。寝泊まりする者もいるらしいが、見たことは無い。油絵の具の臭いの沁みついたフロアは、まるで別世界であった。

 階段を昇って三階のドアを開けて、独特の臭気の中に足を踏み込む。いつもは五月蠅いジンがあまりにも大人しく、それほどまでに荘厳な作品であるのか、と私は生唾を呑み込んだ。

 話は変わって『八方睨みの龍』というものがある。

 嵐山天龍寺を筆頭に随所に存在する龍をモチーフとした作品であり、雲龍図と呼ばれる。その特色はなんと言っても『何処から見ても睨んでくる』という点だろう。

 天井に描かれた龍の姿は、水神としての威力を持ち、恵みの雨を齎すと言う。

 ジンの作品はまるでそれであった。

 彼の完成させた最高傑作は、何処から見てもこちらを見てくるマネキンであった。

 

 彼が自らの部屋を開けると、明かりは付きっぱなしであった。

 そして空っぽの部屋の真ん中に、一体黒いドレスを着込んだマネキンが在った。

「これだ」とジンは一言零して、部屋の隅に座り込んだ。 

 そうして彼はそのまま全く動こうとしなかったので、私はその作品を鑑賞することとした。

 マネキンはのっぺらぼうであり、指は球体関節、首は回して嵌め込むタイプであった。何の変哲もない、よくアパレルショップなどで見られる至って普通のマネキンである。

 黒いドレスも、あまり奇天烈な雰囲気はしなかった。左の肩から右の脇下に向けて襟が過ぎていて、あまりゴテゴテはしていない。美人が着ればその分だけ女性を引き立てるであろうというシンプルなデザインだった。

 私はマネキンと見つめ合った。

 彼女(?)には目が無かったが、しかし見つめ合っているという実感が在った。そうして暫くして、満足したので横から眺めることとする。

 するとやっぱり目が合うのである。

 私はその時、見るという行為は目ではない何物かで行うのだなと強制的に理解させられた。

 しかし異常であったのは、マネキンを後ろから鑑賞した際も、同じような感覚に陥ったことであった。

 私が何か緊張していて、まるで怖い話を聴いた後に背中の後ろの空間が急速に凍ってゆくあの感覚に近しいもの故に視線を感じたのかもしれないが、とにかく、私はマネキンと常に見つめ合っていた。

 私は気付いた。なるほど、これが最高傑作という意味か、と。

 彼の作品は万人受けとは言い辛い。けれどもついに彼は誰にでも伝わり得るモチーフを使用したのである。

 恐怖だ。

 その考えに思い至った瞬間、私の背筋は一瞬で緩んだ。

 これは人工の恐怖体験だと半ばガッカリした。大方四方八方からの特異な光の当て方で、このマネキンがこちらを向いているよう感じるように仕掛けたのだろう、だから部屋を開けた時には既に明かりが点いていたのだ。 

 そう思ってジンを見る。

 彼はまだ縮こまっていた。

 下を向いたまま顔を上げようとしない。

 その辺りで私はまたも妄想した。本物のスランプの果てに、万人受けする作品を作った挙句、それを友人に見せてというのに碌に反応もされないというのは、中々に堪える事だろう。

 私は少し焦って彼に言った。

「凄い作品じゃないか」

 焦ったものだから舌は滑ってだいぶ声は上ずっていた。上等な絨毯と防音材が使用されていたので全く響かず声は床に落ちる。

 けれども彼は顔を上げない。焦りは冷えて固まって、背筋にべっとり張り付いた。私は座り込んだ彼に近づきながら続けた。

「こんな作品は見たことが無い。一体どうやって作ったんだ」

 そう言った瞬間彼が顔を上げた。

 別人にすり替わったと疑いなく思ったし、ドッキリだとも思った。

 とんでもなく老けていた。皺という皺全てが、部屋の照明も相まってあまりにも黒く刻まれていた。

 私はぎょっとして、しかしやはりその男がジンであることを確認すると大いに詰め寄り、そのまま襟首を掴んだ。これは不味い、尋常ではないと確信していた。

 力なく引きずられるジンはあまりにも軽かった。

 私は部屋からジンを放り出してから、電気を消した。ずっと点けっぱなしでは電気代もバカにならない。貧乏学生の思考であった。そうしてドアを閉める瞬間に見た光景は今思い出しても背筋が張る。

 マネキンは闇の中浮き上がるようにこちらを見ていた。

 光の具合なんかではない。

 明らかに異常な事態であった。


 夜が完全に開けるまで、近場のコンビニの前で二人でたむろした。秋だと言うのに汗は止まらず、側溝で胃液を何度か吐いた。冷たい水を買ってだらしなく開くジンの口に無理やり流し込む。私はそのてんやわんやの中でもあのマネキンのことを思い出してしまって、その度に叫び出しそうになっては自分の太もも辺りを殴り付けた。

 どうやってあの作品を作ったのだ、と訊くと、彼は弱弱しい声で

『気づいたら出来てた』と零した。

 朝の秋の涼しい風が吹いて、ジンは多少息を吹き返したようだった。そして死にそうな顔のまま「帰る」と一言、彼はそのまま歩き出したので私はふざけんなと叫び彼の腕を掴んだ。

 死ぬほど辛いスランプの中、なんとか乗り越えて生み出した作品が、悪い意味で尋常ではないものであった、など信じたくないのかもしれない。芸術の道を歩む者は得てして常識が無い。至高の作品を生み出すためならば命だって投げ捨てるのが芸術家なのかもしれない。

 しかし命あっての物種だ。

 逃がしてはならぬと強く腕を握る。お互いに震えていた。そして確かこんなことを言った。

「いいかあの作品は絶対に捨てろ。触れるな。思い出すな。死にたくなければ死ぬな。いいか絶対だ」

 死にたくなければ死ぬな、と言ったことは今でも明確に思い出せる。支離滅裂な内容であるが、多分に必死だったのだ。

 彼は返事もしなかったし頷くことも無かった。

 そしてそのまま四条の方角に消えた。


 して、今頃になってこの話を書いている理由である。

 彼はまたも酒場には訪れなくなった。店員に訊いても、やはり来ていないらしい。

 私と彼は連絡先を交換していないものだから、お互いを繋げる物は無くなった。

 だからつい数日前、彼が復活した際には、またも死ぬほど飲んだくれた。

 おいおいおいおいおいおいおいおい生きてるなら来いよふざけるな貴様と大笑いしながらも青筋を浮き上がらせ彼の背中を叩くとすまんすまんすまんと手を擦りながら叫ばれたので許した。

 彼の頬は元気にこけていた。

 四時間ほど最近の近況と何があったかを話し合う。お互いに件のマネキンについては意図的に話題を避けていたが、話題が丁度切れたタイミングで思い切って聞いてみた。

「あのマネキンはどうしたのだ」

 彼は酒を煽りながら

「ブッ殺して捨てた!」

 あっけらかんと言い放つ。

 嗚呼、もう大丈夫だと心の底から安堵した。






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