本題/船岡山

 山というには背の低いようにも思えた。

 緑生い茂り、故に大風の吹く日には豪と燃ゆる音を放つ。葉が雨に撃たれて啼く声は幾千と重なって頭骨から出てゆかない。

 広場の土は水をよく含むから、雨上がりや雪の日に訪れれば泥が跳ねるのは必然である。

 けれども晴れた日には、天辺から南の方へと京都を眺めることができるし、何処かの鉄道事故の現場に在ったという文七桜は今も細く、しかし綺麗に珊瑚の模様である。

 だから私は船岡山に対して畏れを抱いたことはなかったのである。

 

 ある春の日、午後十時頃だっただろうか。

 夜桜を見たいと思った。

 本当に何ともなし、理由もなく桜が見たくなって私は船岡山に赴いた。

 東の大鳥居に頭を下げてから左方の砂利道を通って、視線を上に傾ける。狛犬が両脇で睨む階段は、荘厳と称して相違ないほどに桜咲き誇り、私の心中を嗚呼と満たした。電灯の光を透かして、桜色に潤むように夜に透けるその様に、私の口は【見事】としか零せなかった。

 何枚か写真を撮って、けれども途中で画像よりも網膜に焼き付けたいと思ったものだから携帯は仕舞って、ふらと歩く。

 行き着いた先は階段の最上に位置する建勲神社だった。やはり、鳥居から五、六歩進んで社を拝んで、私は更にその先へ進んだ。

 建勲神社には二つの入り口があり、私が入ったのは東の鳥居から。そして私が神社から出たのは南の鳥居からであった。

 南の鳥居を過ぎると、真っ直ぐな階段が在って両脇は木々に挟まれている。この時私の心中は暗闇に怯えていたので、葉の隙間から鳴った(がさ)という音にも背筋を凍らせていた。

 本題はこの先であったと言うのに。

 して、階段を降り切ると南向きのT字路に行きつく。ここから左に曲がれば先ほどの東の鳥居へ行きつくので、私は当然右方の広場へと繋がる道を選んだ。

 広場への道に灯りは無い。一切合切、欠片ほども無い。

 空は木々に覆われ月明りも届かず、ただ喧しく飛び回る春の蟲が視界をうろちょろ忙しない。

 木目は渦を巻き、意識の水勢を呑み込むようであった。道は無限に続くようにも思われた。あの瞬間私は叫び出したいような意に駆られて、喉は今か今かと震えていた。

 春風はやけに冷たく刃物のように顎に添う。

 そんな風に──穏当とは程遠い心地であったからこそ、広場の灯りが見えた時私は心底ほっとしたのだ。

 駆け出しはしなかった。けれども、なるだけ早足に。私はせかせかと生き急いで電灯の下へ潜り込んだ。

 救われるような心地だった。心臓は締め上げるように鉄の擦れる音を上げた。

 数舜して琴の音。

 涼しい音が一音だけ、コロンと鳴った。

 私は全速で振り向いた。闇の中に蠢く者は何もいない。耳を澄ます。もう音は鳴らない。

 しかし第六感が真に存在するならば、この時私の全身を総毛立たせていたのはそれなのだろう。私は駆けだした。もっと強い光の在処へと。

 そうして広場の真ん中に立つ。けれども首は動かない。振り向くことができなくなっていた。

 腕が上がってきた。

 水平に、右腕と左腕は首を挟んで停止した。

 今思えば凄まじい緊張故に肩の筋肉が強張って、浮き上がってきたのだろう。緊張と緩和が同時にあって、私の身体は一時的な故障に陥ったのだ。

 けれどもその時の私は決して冷静であるとは言えなかったので、ゆっくりと、ゆっくりと自分の意思に逆らって上がる腕に目を剥いて、振り払おうとしたけれどもこの身体は微動だにしなかった。

 羽虫が飛び交う。

 汗が落ちる。

 契機が何処であったかは定かではない。

 しかし私は白い隔意と共に駆けだした。


 一刻も早く光の下へ、安心できる領域へ。私が選んだ経路は無論最短距離だった。引き返すことはなく、しかし最短で帰ることのできる道を選んだ。

 それは木々の洞窟の中だった。私は走った。恐らく生涯でこれほどまでに必死に足が在ることを意識したことはなかっただろう。

 無我夢中で走る中、頭の上で烏が啼いた。

 羽音は天狗の団扇のように響いたものだから相当な怪鳥であった。

 があと濁った音で烏は四度啼いた。私はその時正直安堵した。

 烏が人家の上で三度啼くとその家の住民が死ぬという迷信が在る。けれども今のは四度だから私はまだ大丈夫だ。などと考えていたら三度啼いた。

 一瞬前の安堵全て黒風に消し飛ばされ冷や汗は瀑布と音を立てる。しかし諦念に息を吐くにはまだ一歩あるのだと形相を歪めて走る私の真上で今度は烏が二度啼いた。

 またも一瞬ホッとして、ふと気づく。

 カウントダウンなのではないか?

 刹那怖気爆走し全力で逃げ道を探した脳味噌がもう無理と音を上げる。ええいまだ一手あるわと心中叫ぶ私を嘲笑うように頭の真上で烏が、があ

 があと二度啼いた。

 瞬間私は森を抜けた。


 今振り返ると相当に面白い体験であったと思えるのは、今私がこうして息をしているからである。

 後の民俗学の講義にて、その日取り上げられたトピックは山だった。衣笠山の由来は修業中の僧の遺体に布を掛けて遣ったからである、だとか、妙にその辺りに火葬場が多いとか、氷室町の年々家賃の安くなるアパートには下半身だけの幽霊が出るだとか、面白い話が満載で、私の鼻提灯はその日ばかりは息を潜めて膨れなかった。


 ──船岡山という単語が教授の口から飛び出た瞬間私の鼻提灯は叩き割れて意識は水面下から飛び出した。

 教授はまたも誰も聞いていないことを察していてなお大層嬉しそうに語る。

 船岡山はかつて斬首刑の処刑場であった、と。

 私は振り返る。夜桜に心躍らせたあの日のことを。

 筋肉の緊張で昇ってきたとばかり思っていたあの腕の位置は何処であっただろうか? 丁度首のあたりで止まっていたのは覚え違いでは無いだろう。何故ならばあの時吹いた冷たい風は確かに首に添っていたのだから──


 京都には幾つもの逸話がある。千本通の由来が千本の卒塔婆に依るとは有名な説であるし、化野が風葬に纏わる意味であることも個人的に記憶に新しい。俗に心霊スポットとされる場所も多く、賑やかな河原町の辺りから離れれば、この町は全体的に黒い霧のようなものが透けている。

 梶井基次郎氏の小説作品に『桜の樹の下には』というものがある。

 この作品は、桜の美しさを信じることのできない主人公が、それ故に暴力的な孤独に陥っていたが、桜の樹の下に屍体が埋まっていると自分の中で定義する美しい透視術によって、その色に死や終わりの持つ残虐な心地を見出すことで感動を得るというものである。

 とても短い作品で、青空文庫にも掲載されているのでよろしければ是非読んでいただきたい。

 ならば京都の町は戦乱の上に立っている。

 いくつもの戦いと虐殺と見せしめがあって、その上で歴史を築いた深き町である。

 故にこの町は孤独な者にやさしい。

 世間の感性と自分が似合わないという事実は孤独を齎すが、しかしどうにもこの町はたかが人間の心象で呑み込むことなど出来やしない圧倒的な胡散臭さで満ちている。

 迷ったならば京に来てみるのは如何だろうか

 水面下で蠢く幾千の屍体は、きっと貴方の心を刺す。





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