#2.心肺停止のその後 〜最後の雪〜

10年目内科医 田村の診療録。


 田中智子さんは90歳を迎えた。穏やかで、家族に囲まれて、長い人生の終わりを迎える準備ができているように見えた。彼女の顔には、日々の小さな幸せが刻まれており、家族との時間を何より大切にしていた。


 お正月が近づくと、彼女はいつもより一層楽しそうにしていた。年に一度の家族の集まりを心待ちにしていたのだ。



 その日も、彼女の家は賑やかだった。親戚が集まり、賑やかな声と笑いが絶えなかった。お餅をつく音や、料理が並ぶ音が厨房から聞こえ、部屋には温かい雰囲気が広がっていた。


 「おばあちゃん、おもちどうぞ!」と、孫の健二が笑顔で声をかけた。


 「ありがとう、健二ちゃん。いただきます。」智子さんは微笑みながら、おもちを口に運んだ。しかし、数分後、彼女の笑顔は急に消えた。突然、息苦しさに顔を歪め、周りに助けを求めるような目を向けた。


 「おばあちゃん、どうしたんだ?」家族の誰もがその異変に気づき、彼女を支えようとするが、智子さんの呼吸は次第に止まっていった。


 混乱とパニックの中で、家族は慌てて救急車を呼び、応急処置を試みようとしたが、時間が過ぎてしまった。

 

 救急隊が到着したときには、智子さんの心肺はすでに停止していた。救急隊員たちは、心肺蘇生法を開始し、彼女を病院へと運ぶこととなった。開始したときには、すでに10分経過していた。



 智子さんが病院に到着したのは、心肺停止から30分ほど経った後だった。医師の田村は、緊急対応チームと共に、彼女の救命処置を行った。気管挿管や胸骨圧迫など、可能な限りの処置を行った結果、10分後に心拍が戻り、智子さんは一命を取り留めた。



 しかし、意識は戻らず、彼女はICUに入室することとなった。



 田村は最初、救命処置を行うことに対して冷静であろうと努めていたが、智子さんの状況が明らかになるにつれて、彼の心には複雑な感情が渦巻いた。

 医師として、最善を尽くす責任がある一方で、家族の苦しみを目の当たりにすることで、彼自身の感情も揺れ動いた。智子さんが意識を取り戻さない可能性が高いと分かりながらも、彼は希望を捨てられず、治療に全力を尽くした。


 ICUの中で、智子さんは人工呼吸器に依存する状態であった。自発呼吸が多少見られるものの、彼女の意識は完全に失われていた。

 

 家族は交代でお見舞いに訪れ、その姿に心を痛めていた。彼らの不安と悲しみは、言葉では表現しきれないほどだった。



 主治医は、蘇生チームでも対応していた内科の田村が担当することになった。田村は、家族に智子さんの状態を説明する際、自身の言葉がどれほど家族に痛みを与えるかを深く考えた。彼の心には、医学的な観点だけでなく、人間としての温かさと配慮も必要だと感じていた。



 2日目の朝、田村は家族が来院されたときに、智子さんの現状を説明した。「智子さんの意識はまだ戻らず、肝機能に異常が見られ、多臓器不全の兆候もあります。正直に申し上げると、意識が戻る可能性は非常に低い状況です。私たちは最善を尽くしますが、これから先のことを家族でよく考えていただく必要があります。」


 家族は田村の言葉を受けて、再び話し合いを始めた。智子さんの娘である美代子さんは涙ながらに語った。「母はいつも元気で、家族との時間を大切にしていました。どうしても彼女を苦しめたくない…。私たちも、どうすればいいのかわからなくなっています。」


 その時、智子さんの25歳の孫である健二が、涙をこらえながら言った。「おばあちゃんには辛いことはしてほしくないんです。おばあちゃんが幸せだった時を思い出すと、今は安らかにしてあげたい…。管をつけておくのも辛いと思うんです。」


 家族の思いは一致し、苦痛を緩和する方向で管を外す希望があった。田村は慎重に、ICUの医長や麻酔科医、外科医と協議し、自発呼吸がある状態での抜管のリスクと、可能性について検討した。最終的には、彼女の苦痛を和らげるために、抜管する決断が下された。


 ICU入室4日目、家族が病院に待機している中で、抜管が行われた。田村とスタッフは、智子さんの状態を丁寧に確認しながら、静かに管を外していった。智子さんの呼吸は安定しており、管がなくなったことで彼女の表情はどこか穏やかに見えた。


 家族はその姿を見て、安堵の表情を浮かべた。健二が涙ながらに語りかけた。「おばあちゃん、今はただ寝ているみたいで、意識が戻らないのですね。でも、穏やかで安らかな姿を見て、少し安心しました。」


 ICU入室5日目の午後、智子さんの呼吸は安定していたが、突然徐脈が始まった。スタッフはすぐに家族に連絡し、病院に呼び寄せた。家族が集まった13:20、智子さんの心拍は静かに停止した。家族はその瞬間を見守りながら、涙を流しつつも、彼女が最期の瞬間を迎えたことを受け入れるしかなかった。


 

 田村はその後、静かに自分のデスクに戻り、深い考えにふけった。医師として、患者やその家族に対して最善を尽くすことは当然の使命だ。


 しかし、智子さんのケースを通じて、彼の心には大きな問いが浮かんでいた。家族の幸せとは何か、そして彼らが選ぶべき道はどこにあるのか。その答えは、医学だけではなく、人間としての深い理解にあるのだと、彼は感じていた。


 

 智子さんの死は、彼女が家族と過ごした最後の冬の雪のように、静かで、穏やかで、そして美しいものだった。田村はその一瞬一瞬を大切にし、次の患者とその家族に対しても、同じように寄り添い続けることを決意した。医師として、彼の心の中には、智子さんとその家族への深い敬意と感謝の気持ちが刻まれていた。


※実在する人や団体に関係はありません。

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