第18話 留置

 〝ナナカマドさん〟という呼称を与えられ、呪力を弱められた古霊とオビル婆との対話は連日続いていた。婆は塔子の体から霊を追い出すべく、そしてあわよくば村にかけられた蛇神の呪いを解く手がかりがつかめないかと探るべく全力を尽くしているのだった。

 三日に一度だった清めの酒は、いまでは毎日のこととなっていた。三日に一度では古霊の発散する邪が払えないと判断してのことだった。五人の産婆が交代でその番に当たった。

「おかしいね……。本当ならお清めのために振りかけられた酒は、座敷牢のなかを清浄な匂いに変えてくれるはずなんだけどね」

 産婆たちのなかでもっとも年の若い(といっても八十歳代であったが)コドリ婆がいぶかし気につぶやいた。古霊の呪力は弱められたとはいえ、まだその内部により強い呪力を秘めていると見え、清めの酒をかければかけるほど、座敷牢の内部は不快な匂いで満ちていった。それは腐った水のような嫌な匂いで、それもまた徐々に生き物の遺骸のような腐臭に変わりつつあった。

 コドリ婆が酒を振りかけるのを終えると、入れ替わるようにオビル婆が座敷牢の前に立った。

「ご機嫌いかがかね、〝ナナカマドさん〟」

 やや侮蔑的な響きを加え、オビル婆は言った。

「フン。今日もおいでなすった」

 〝ナナカマドさん〟と呼ばれた古霊はこれに反抗するような声音で答えた。古霊の魂を入れた塔子の体は、いまではすっかり痩せ衰えていた。なかに入っている霊がその強力な呪力でもたせているとはいえ、もうひと月以上も何も口に入れていないのだから、当然といえば当然なのだが。だがオビル婆は水さえも古霊のいる体には入れさせなかった。

「塔子が参ってしまう」

 長内は泣きついたが、オビル婆の表情は厳しく固かった。

「これはもう塔子ではないのじゃ。出て行かすよう努力しておるゆえ、もうしばらく辛抱せい」

「もうしばらくって、どれくらいですか……。塔子の体はそれまでもつのですか」

 長内はおろおろしながら言ったが、ぴしゃりとはねつけられてしまった。

「もつかどうかはわからん! 場合によっては塔子は諦めねばならないかもしれん。でも全て、いたしかたないことじゃ。我々はできること全てを行っておる。こらえよ、夫どの」

 そう言ったオビル婆の表情は真剣そのものだった。長内は胸の詰まる思いをしながら引き下がるしかなかった。


 オビル婆が古霊と対峙しているあいだ、ほかの四人の婆、ヤナカ婆、ハシン婆、ネシン婆、コドリ婆は蛾十郎の面倒を見てくれていた。

 何しろ厳しい修行によって四十で死ぬことを免れることのできる特殊な家系の産婆たちである。その卓越した霊力とほかの村人たちには持ち得ない人生経験を持つ彼女らによる子守りのあいだは、誰も側に寄ることはできなかった。

「何と可愛いお子じゃろうの」

「ホレホレ、この可愛らしい小さい爪を見よ」

 などと言って、まだ目もよく見えていない蛾十郎が寝かされているちぐらの周りを取り囲み、手を握ってみたりその柔らかい頬を指先でつついてみたりと夢中の様子だ。

「産婆たちは自分の子を持てないので、赤ん坊を見るとたまらないのでしょう」

 コエシロウは苦笑しながら言った。

「そうなのか」

 長内は驚いて言った。

「はい」

 真面目な顔をしてコエシロウは答える。

「産婆の一族に生まれた女には、穢れごととされる妊娠・出産は禁じられています。生まれてからすぐ親と離れ、産婆の長の家で暮らしながら占いや祈祷、邪気を払うまじないなど多くのことを学びます。村の女の出産の手伝いをするのが主な役目ですが、生まれた赤ん坊はすぐに母親が家に連れ帰ってしまいますから、このようにゆっくり接する時間を取れるのは滅多にない機会なのです」

「へえ」

 長内は、改めてまじまじと産婆たちを見た。みな実にいい表情をして蛾十郎を見つめている。我が子がそんなにまで老婆たちを喜ばせることができているのかと思うと、少し誇らしい気持ちになった。


 それからも、産婆の長であるオビル婆と古霊の対決は続いた。数々の呪文を唱え、清めの酒の量を増やしたり護摩を焚いてみたり、五人の産婆がそろって祓いの儀式を行ったりもしてみたが、古霊は苦しんでのたうち回るものの、塔子の体にしがみついて決して離れようとしないのだった。

「こりゃ、頑固な古霊じゃ」

「邪気子の霊じゃからな、しつこい」

 ハシン婆とネシン婆が交互に言った。この二人は従姉妹であるが、父方の姉妹から生まれたということで濃い血で繋がれている。年齢も同じで容姿もよく似ているので双子と見紛うばかりだった。

「どうすればいいか」

 オビル婆が問うた。二番目に年かさの、思慮深いヤナカ婆がこう答えた。

「邪気子は追い立てても凝り固まるばかり。この子供を魅入った神の望みを抱えているはずじゃ。その神の望みを叶えてやると取引すれば、あるいは心を開くやもしれんぞ」

「名案じゃ!」

 ハシン婆とネシン婆が、重なった声で叫んだ。

「ふむ」

 オビル婆の心にも、響くものがあったらしかった。

「ではその案を採用しよう。確かにこの膠着した状況を打破するきっかけとなるやもしれん」

 オビル婆はそのなめした皮のような頬をなでながら言った。


 直ちに五人の産婆たちによって、一組の供物台が用意された。それは樫の木の枝で組まれた背の高い供物台で、婆たちはそれを座敷牢の前に置き、低い声でまじないを唱えながら、ひとりひとり異なる形の御幣を切った。

「たてまつりたてまつる……山の神の望みは何ぞ……」

 目を閉じたオビル婆が、山の神へ問いかける。座敷牢のなかではまだ何の反応もない。

「邪気子が様子をうかがっておるのじゃ」

 同じく目を閉じ、まじないを唱えていたヤナカ婆が言う。

「たてまつりたてまつる……山の神の望みは何ぞ……」

 五人の婆が、声をそろえて問いかけた。

 何度も何度も問いかけるにつれ、ようやく座敷牢のなかで動きがあった。

 〝ナナカマドさん〟の呼称をつけられた古霊が、もの珍しそうな様子で格子のほうに近寄ってきた。相変わらず白目を剥いたその眼差しはどこを狙っているのかわからないが、ズズ……と音を立てながら膝で前へすり寄ってきた。

「山の神の望みが知りたいか」

 〝ナナカマドさん〟は言った。口元には、これ以上はないというような邪悪な微笑みが浮かんでいる。

「反応した」

 コドリ婆が小声で言った。オビル婆がその場を引き取る。

「お前は山の神の望みを抱えておろう」

「うん、確かに」

 古霊は嬉しそうに顔をゆがめた。

「その望みを叶えよう。我らに言うてみるがよい」

 古霊は突然、クスクス笑い始めた。美しい塔子の顔をくしゃくしゃにゆがめ、頭を左右に激しく揺さぶって、両手で膝を抱えるように倒れると、髪を振り乱してしばらくもだえていた。その不気味な所作は、それが邪悪な古霊以外の何ものでもないことを示していた。

「早う、言わぬか」

 横からハシン婆が清酒を振りかけた。ギャッ! と叫んで弾けるように身をひるがえした古霊はようやく顔を上げ、格子の前まで這いずってきて木の柵に手をかけた。かけられた清酒が吐瀉物のような臭いに変わって皮膚の上から発散した。

「では、話す」

 古霊は婆たちの至近距離まで近づいてきて口を開けた。座敷牢と廊下じゅうに、思わず顔をしかめるような悪臭が広がった。

「お前たちが呪われた経緯について書かれた書物があるじゃろう」

 古霊は言った。

「おう。それは村人全ての知るところ」

 オビル婆が応じた。

「お前たちはあれを全部読んだか?」

 ねっとりとしたいやらしい声を出して古霊は言う。

「我々産婆は全て読んでおる」

 ネシン婆が言った。

「本当に? 全部と言っておるのだぞ?」

 古霊の声は、いよいよ邪悪さを増していく。

いにしえから村に伝わる書物には、我々全て目を通すことになっておる。読み残しはない」

 ハシン婆が眉根に皺を寄せて言った。古霊のいやらしさに神経を逆なでされ始めたようだった。

「鴨居留置」

 ぽつりと、引っ掻けるような言い方で古霊は言った。

「何?」

 オビル婆が反応する。

「鴨居留置という人物の書いた書物がある」

 古霊は小さな秘密をばらすような声で、続けた。

「鴨居留置なら、無論我々は読んでおる。というより、この村の人間なら必ず一度は目を通しておるほどじゃ」

 コドリ婆が声を荒げた。

「本当か? お前らは、本当に鴨居留置の書物を読んだのか?」

「くどい」

 オビル婆が強い声で言った。

「これ以上こうして問答を続けてお前を楽しませる暇はないぞ。それよりも、早う言え。お前を魅入った山の神の望みは何ぞ?」

 オビル婆は清酒の並々と入った柄杓ひしゃくを掲げ、身構えた。

「やめろやめろ! わかった言うから」

 古霊は片腕を振り上げ、自分をかばう仕草を見せながら言った。清酒はやはりこたえるらしい。

「鴨居留置という人物の書いた巻物がある」

「鴨居留置はもう読み尽くしたと言ったであろうが!」

 オビル婆は清酒を古霊の頭に振りかけた。アガァッ! と叫んで古霊は飛びすさった。

「待て。邪気子はいま、〝巻物〟と言った」

 ヤナカ婆が素早くあいだに入った。

「巻物……」

 オビル婆は眉をひそめた。

「鴨居留置の書いた巻物がある」

 座敷牢の奥に退いて震えながら、古霊は言った。

「おそらくそれはまだ、誰にも読まれておるまい。お前ら村の者は、自分たちがかけられている呪いについて詳しく知っているだろう」

 けれど……、と、邪気子の古霊〝ナナカマドさん〟は顔の半分を握り潰されたようにぎゅーーっと絞りながら言った。

「呪いについて、それ以上のことを書いてある書物が存在するとしたら、何とする?」

 五人の婆は色めき立った。

「もしやすると、この呪いを解く手がかりが書いてあるかもしれん書物があるとしたら……」

 古霊はぺろぺろと舌を出しながら笑った。

「それはこの大屋敷のなかのどこかに保管されておる」

 そう言うと、古霊はまた膝を抱えた態勢になり、座敷牢の奥に横たわって動かなくなった。

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