第16話 神隠

 数週間が経つと、古霊は「ナナカマド」という言葉を連呼するようになった。

「何じゃ、ナナカマドとは」

 連日産婆らが座敷牢の前に立って問いかけ、その真意を探ろうとしてみたが、どんなに聞き出そうとしてみてもらちが明かなかった。ただ古霊は白目を剥いたままの顔を振り上げて、「ナナカマド、ナナカマド」と繰り返すばかりだった。


 オビル婆を始め、村長など村の主だった面々が本家の座敷に集まり相談した。その集会には長内も参加した。

「古霊はなぜあの言葉ばかり連呼するのだろうか」

 村長は言った。それに応えてオビル婆が話した。

「ナナカマドとは、木の名前ではあるがな。わしが幼少のころ、爺様から聞かされた話のなかにナナカマドの木が出てくる話がある」

 それと関連があるか否かは定かではないが、と言い置いてオビル婆は話し始めた。


 オビル婆の祖父が幼いころ、ある日突然村の子供がいなくなった。

 その男の子は山の裾野にある神社の境内で遊んでいたらしいが、昼を過ぎても戻ってこないため、親や近所の人らが村じゅうを探し回った。

 最終的に村じゅう総出で日が暮れるまで探したが、とうとう見つからなかった。

 村人たちはそれを、疑うこともなく「神隠し」と信じた。昔から山の神様が子供をさらってしまうことは、よくある話だった。そしてそれをどうすることもできないのは、村の誰もが知るところだったのだ。

 親も村人も皆子供を思い、悲しんだが、どこにも誰にも子供を見つけることはできなかった。

 ところが、三年の月日が流れたのち、突然子供は戻ってきた。

 子供は姿を消した神社の敷地内に生えているナナカマドの木の枝の上に座って下を見下ろしているところを発見されたのだった。

 驚いたことに、その子は三年前の姿のまま、全く年をとっていなかった。

 いったいいままでどこにいて何をしていたのか、と村じゅうの人が聞いたけれど、子供は夢うつつのような目をして「覚えてない」と答えるばかり……。そのあいだの記憶は一切ないのだった。

 どうして三年前の姿のままなのかということも、全くわからなかった。子供は実際の年齢より三歳若いままで暮らし、修行をして腕利きの指物師になった。そしてそのまま年を取り、ほかの村人と同じようにして亡くなったという。


「あの古霊は、もしかするとその子供かもしれん」

 オビル婆は真剣な顔で言った。

「わしが一度、尋ねてみよう」


 翌日オビル婆は座敷牢に出向き、相変わらず白目の目玉をぐるぐる回している古霊に向かって言った。

「お前はナナカマドの木の枝に座ったことがあるか」

 古霊はく、っと首をかしげた。どうやら思い当たることがあるようだ。

「ナナカマド……。おう、思い出した。そうさな、あるよ。懐かしい」

 そして首を上下に激しく振りながら大声で笑った。

 蝿を払うかのように手のひらを振ったオビル婆は、

「お前は忌まわしい」と言って真言を唱えた。

「やめろ! こそばゆい」

 古霊は腹の辺りを抑えて笑いをこらえきれぬといったように体をかがめた。

「やはりそうか。お前は山の神に魅入られたことのあるじゃの」

 古霊はバッと顔を上げ、

「そうじゃ! だが俺は山の神に魅入られて邪気子になったのではない。俺の親は近親婚よ。俺は生まれたときから邪気子だったんじゃ。 でもそれが何じゃ!」

 と舌を長く出して産婆を罵った。その舌はもはや塔子のものではなく、異常に長く紫色を呈していた。

「これはかなり厄介じゃ」

 ハハハハハ! と煽るように邪悪な笑い声を立てる古霊に耳を塞ぎながらオビル婆は言った。そして向き直ると、

「いま、お前に名前をつける。お前はたったいま、この瞬間から〝ナナカマドさん〟と呼ばれるのじゃ」

 古霊は〝ナナカマドさん〟という呼称を与えられた。これは古霊の霊力をいっとき封じるための応急処置だというようなことを、オビル婆は皆に伝えた。

「〝ナナカマドさん〟などと親しみを込めた呼び名で呼ばれることで、あいつから若干の邪力ががれる。馬鹿馬鹿しく思えるかもしれんが、邪悪な霊に対してほど効力がある」

 それが真理じゃ、とオビル婆は言った。


 長内は困惑していた。塔子の出産以来、我が子と離れたくなくて産婆の家に留まっていたが、この先どうしたらいいか全く見当がつかなかったのだ。

 塔子は古霊などというわけのわからないものに取り憑かれ、村長の家の座敷牢に監禁されているし、赤ん坊は赤ん坊で、女の手が要るといって産婆たちや産婆の家で働く女たちに取り上げられた格好になっている。

 赤ん坊の父親である長内に、この家の女たちは親切にしてくれる。毎日の食事や風呂、掃除や洗濯など随分細々と世話を焼いてくれていた。

 だがそんななかで、自分にできることが何もないことに長内は気づいていた。赤ん坊、蛾十郎は健康そのもので、すくすくと育っている。長内は好きなときに子供に会うことを許されていた。

 だが、長内は正直、この状況に不満を持っていた。本来自分は妻の出産のために里帰りに付き添ってきたのだった。塔子が出産を終え、元気な赤ん坊が生まれた。何ごともなければ親類縁者に挨拶をして、妻と子供を連れて街へ帰り、本来のシステムエンジニアの仕事に戻るはずだった。この村の異常な歴史について知ってしまったあとには虚無感や無力感に襲われたものだったが、本当にどうしようもないことなのだろうか。ここに来て、初めての子を持った安息感からか、長内の心は希望的観測に傾きつつあった。

 この村は古来、蛇神に呪われている。しっかりとした古文書が残されているし、村人たちが背負わされている悲惨な宿命も目の当たりにしていまは疑いはない。だとしても子供を産み、二十歳を迎えていったん死んだあと、塔子は墓穴から復活してまた新たな十年を生きることができたはずだった。三十歳でまた死ぬ運命にあるのかもしれないが、さらにもう十年生きることができる。あらかじめわかっていれば逆に心の準備もできるというものだ。四十歳でいよいよ本当に逝ってしまうということだが、そこのところはまだ長内には具体的なイメージが持てなかった。自分の都合のいいように解釈して、そんなことは起こらないのではないかと勝手に納得してしまう自分がいた。

 しかし墓穴から復活した妻はいま、厄介な妖怪変化のようなものに取り憑かれ、身動きができない状態にある。

 この状況を何とかして打破したい、と長内は思った。古霊を追い払い、塔子の魂を取り戻す方法はないのだろうか。夫として、そして子供の父親として、何か役に立ちたい。そんな気持ちが急激に高まってきたのだった。


 長内は産婆の家を出て、庭にいるコエシロウに会った。塔子の出産が済んで妊婦のいなくなったこの家には当面門番は必要ない。少年は暇そうに、庭の片隅の草取りをしたり池の鯉を眺めたりしていた。

「ちょっと頼みがあるんだが」

 長内が声をかけると、興味津々な顔をしてこちらに近づいてきた。出産準備中の家の警備という大仕事を終えてほっとしているらしいコエシロウは、何か気晴らしになることに飢えているように見えた。

「あの古霊は、オビル婆の爺様の時代の霊らしいということは聞いているか?」

 長内は尋ねた。

「ええ」

 当然、という風にコエシロウは答えた。

「そうらしいですね。神隠しの子供がナナカマドの木の上で発見されて、三年ものあいだのことを何にも覚えていなかったっていう話は、婆様から何度も聞かされたことがあります」

 そして、目を光らせて言った。

「そいつは、普通の霊じゃありませんよ」

「そいつが塔子に取り憑いている」

 長内はうつむきながら言った。

「お気の毒に。子供を産んだタイミングが悪かったんですね」

 コエシロウもうつむいた。

「どうにかできないかな」

 長内が言う。

「こればっかりは、どうにも。古霊っていうのは本当に厄介なんです。何せ、人の体に入りたくてそればかりを何百年も執念深く狙ってた奴なんですからね。せっかく手に入れた体をそうそう簡単に譲り渡しはしない」

「そうか。でも」

「えっ?」

「どんなことにも、解決策っていうのはあるはずだ。そのうちオビル婆にも相談するつもりだが、その前に行きたいところがある」

「どこに行くというんです?」

 コエシロウは、ぽかんとした顔で聞いた。長内は決意を秘めた視線でこう答えた。

「山の裾野の神社」

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