第14話 出産

 離れのなかは、異様な臭気に満たされていた。遠くからでもわかっていたその匂いは、いまや神秘性を失い、鼻を突くほどの強さで長内を圧倒した。

 見ると部屋の四隅に太い線香が何本も立てられた特大の線香台が置いてある。それに加えて、塔子の寝かせられている布団の頭と足下には金属の香台が置かれ、そこから濛々と煙が湧き上がっているのだった。線香の匂いより、その煙の匂いのほうが強烈だった。

 思わず咳込んでしまった長内を見て、産婆はニヤリと笑った。

「男にはちとキツいじゃろうのう、この匂いは」

 そして続けた。

「塔子は順調よ。いまのところ、体はな。……ただ、初産ゆえの緊張はあるかもしれん」

 そのプレッシャーから塔子を解放せよ、と長内は命じられた。この何歳であるかもわからないほど年取った、ほとんど神がかって見える産婆に命じられると、歯向かう気さえ起こらなかった。もちろん、長内は塔子を励まし、見舞うためにここに来たのではあったが。


 長内は膝をつき、布団の上の塔子に優しく話しかけた。

「塔子、来たよ……。苦しいかい」

 塔子はうっすらと目を開け、聞こえないくらいの声を漏らした。

「あなた、やっと……やっとここまできた。もうすぐ私たちの赤ちゃんに会えるよ」

 そしてそう言うと、強烈な痛みに顔をゆがめた。陣痛の波が戻ってきたのだ。

「塔子、がんばれ。ここにいて、ずっと応援しているよ」

 長内は妻の手を取った。それを塔子は信じられない力で握り返し、その強さに長内は驚いた。

「あんたはずっとここにいるわけにはいかんよ」

 産婆が口を挟んだ。

「もう、ホレ、男たちは出ていく時間じゃ。ちっとやと言うたじゃろうが。コエシロウ」

 言いながら産婆は顎をしゃくる。コエシロウがスッと立ち上がり、長内の肩に手をかけた。

「間に合うかな……、間に合うかな……」

 塔子の声が不安げな、悲痛な響きを帯びてきた。長内の手を握り占める手に、さらにぐっと力が入った。

 長内にもその意味はわかった。自分の死の瞬間までに間に合うかな、と塔子は言っているのだ。おそれていたことではあったが、翌日は奇しくも塔子の誕生日だった。

「予定どおりいきゃ、間に合うがな」

 産婆は落ち着き払った声で言った。


 産婆たちの離れを出て、再びコエシロウに案内され、長内はもといた部屋へ戻った。そこにはいつの間にか膳が出され、暖かい食事が用意されていた。

 膳は二人前あり、コエシロウもここで食事を摂るのだということが意図されていた。

「酒を」

 手をパンパンと叩き、コエシロウは廊下の向こうへ声をかけた。こんなときに自分たちだけ飲食をするなんて不謹慎な気がして、長内は困惑した顔をしたが、相変わらず正面に陣取ったコエシロウはこんなことを言った。

「今夜は長い夜になるでしょう。ずっと待機していなければならないのですから。そのための腹ごしらえは重要です」

 毅然として言う少年は、まだどう見ても未成年だった。

「しかし、君はまだ子供だろう。酒はまずいんじゃないのか」

 長内は眉をひそめた。

「酒は〝清め〟の意味もあります。あなたの属する社会ではどうか知りませんが、この村では子供でも必要とあらば酒を飲みます。それでどうかなるなどということは、いままでに聞いたことがありません」

 涼しい顔で、コエシロウは返す。

「どうやらすでに随分経験済みらしいな」

 目を丸くしながら長内は言った。そうだろう。この村では、超特急で大人にならなければならないのだ。四十で死ぬことが運命づけられている彼らにとって、十四歳ということは、人生ももう三分の一以上過ぎていることになる。この村の若い女たちが妙に成熟しているのも、虚しく納得がいった。


 酒が運ばれ、十四歳の少年との奇妙な酒盛りが始まった。

 料理はどれも趣向が凝らされた美味しい山の幸だった。この村で作られる酒というのも、到着したばかりの歓迎会のとき以来だったが、やはり素晴らしい味だった。

 長内は、少年の飲みっぷりに関心した。コエシロウはその小柄な体に似合わずいくらでも飲める口のようだった。見ているうちに、相変わらずの涼しい顔で猪口を傾け、スッ、スッと吸い込むように飲み干していく。その許容量は無限のようだった。

 しかもコエシロウは幾ら飲んでも全く乱れないのだった。彼の口に着いた途端、酒は水にでも変容するかのようだった。

 長内は飲めないわけではなかったが、ごく普通の肝臓の持ち主であったので、しばらく酌み交わしていると完全に酔った。脳内はリラックスし、気持ちもつい緩む。

 すっかりいい気分になってしまい、長内は少年に心を開いた。

「その〝コエシロウ〟って名前、十五になったら変えるって言ってたよな」

 心地よい酔いにまかせて、馴れ馴れしく長内は言った。

「変えるとき、何て名前にしようとかもう決めてんの?」

 するとコエシロウは意外なことを言った。

「何がいいと思います?」

 そして愉快そうに口元をほころばせた。

「何って……。まだ考えてないのかい? 私に決めさせようっていうのか?」

 長内は拍子抜けした。殴られた日、あれほどの剣幕で「カッコいい名前に変えるんだよ!」と意気込んでいたのに。

「だって僕はこの村から一歩も出たことがないのだから。……生まれてから一度もですよ。ご存じのとおり、この村では古来の風習に従って、伝統を守る暮らしをしています。外部の文化のことを我々は知らない。この村の外の出来事と言えば、全国に出ていった先輩たちがときどき帰省した折に伝え聞く噂話ぐらいなんです」

 自分は来年になったら村の外に出ていくつもりだ、とコエシロウは言った。そして村に連れて帰る伴侶を見つけなければならない。

 無論、それは村に外からの血を入れるためだということは、いまは長内も理解していた。

「だから、外の世界で通用するようなカッコいい名前に変えたいんです。ううん、通用するだけじゃ足りない。モテる名前が必要かな」

 コエシロウは笑顔で言った。なるほど彼の外見であれば、きっと女性にモテるに違いない。だがコエシロウほどではないにしても、おかしな名前であればそれはちょっとネックになるかもしれない。

「何がいいと思います?」

 またコエシロウは言った。もしかしたら、少年もさすがに少し酔っているのかもしれなかった。

 そうだな……。長内は考えた。

「〝マサキ〟ってのはどう?」

 三十秒ほど考えてから、長内は言った。

「それってカッコイイ名前ですか?」

 興味深げにコエシロウは問う。外部の世界のセンスは全くわからないようだった。

「カッコイイ名前だよ」

 大きくうなずいて長内は請け負った。思いつくまま答えたが、長内の知る限り〝マサキ〟という名でカッコ悪い男はいなかった。逆にイケメンに多い名前だという認識がある。

 それにこうして打ち解けてから見るコエシロウに、マサキ〟という名前はひどく似合うように思われた。


 夜は刻々と更けていった。食事を終え、出された酒も飲み尽くしてしまったいま(そのほとんどはコエシロウの口に消えていったのだが)、二人の男はうつらうつらし始めていた。

 食事の膳を下げにきた女たちが、お布団を敷きましょうかと言ってくれたが長内はそれを断った。塔子が出産に臨んで闘っているというのに、自分だけがぬくぬくと布団のなかで眠るわけにはいかない。ともに酒を酌み交わしてすっかり打ち解け、いまやバディのような間柄になったコエシロウも長内に準ずる心づもりだった。


 体を横にすると睡魔にやられると思い、踏ん張って座位を保ったままウトウトしているうち、長内は妙な夢を見た。


 夢のなかで、塔子は出産を迎えていた。脚を大きく開き、渾身の力を込めていきんでいる。声にならない唸り声が、塔子の喉元から発されている。太ももからは、布団の上に降り注ぐように汗が滴り落ちている。

「ハイ、もうそこまでよ……そこまで来てるよ。いきめッ!」

 産婆のくしゃくしゃした声が聞こえる。その姿は霧のようなもやのようなもので隠れて見えないが、産婆は真摯に塔子の出産の世話をしてくれている。長内は安堵した。

「ああーーーーッ!」

 夜闇を切り裂くような、悲痛な声が塔子の口から放たれる。それがだんだん頻度を増し、陣痛の痛みはクライマックスを迎えているようだ。

「もうすぐもうすぐ……がんばれ、塔子ちゃん、もうすぐだよ」

 ほかの産婆たちの声も、途切れ途切れにだが聞こえる。五人の老女たちが入れ替わり立ち代わり、塔子の手を握り、汗を拭き、産褥に備えて湯を沸かしている。


 隣でコエシロウがゴロッと横に倒れた。その音と衝撃で、長内は目を覚ました。

 塔子のお腹から、赤ん坊が出てこようとしている。

 直感的に長内にはわかった。離れのほうをうかがおうとしたが、いまいる部屋からではどの方向なのかわからない。

 やはり深酒であったのか、コエシロウは鼾をかいて眠り始めた。こうなればもう目を覚まさないだろう。

 試みに、襖をそっと開けてみた。廊下は暗く静まり返って、誰もいない。

 おそらく皆手伝いに駆り出されて離れのほうに行っているのだろう。しばらく様子をうかがっていると、長内のいる部屋の前の廊下と直角に交わる廊下を女がひとり、足早に歩いていくのが見えた。

 長内は足音を立てぬように、その女のあとをつけた。女は縦横無尽に走る暗い廊下を、迷いもせず小走りに進んでいった。長内もそのあとに続く。


 どうやらうまく気づかれぬように、離れに近づくことに成功したようだ。迷路のように入り組んでいる廊下をもしひとりで通り抜けようとすれば、迷ってしまっていたたに違いない。

 女が入っていくのを待って、長内は扉の前に陣取った。酒の酔いが残っていて頭はフラフラしていたが、赤ん坊が出てくる瞬間を間近で感じたかった。

 扉の中からは、塔子の鋭い叫び声が聞こえてきた。ああ、夢と同じだ。長内は思った。もしかしたら俺は、塔子の出産の場面を本当に見ていたのかもしれない。体から魂が抜け、ふわふわと漂って、この離れの建物に俺は入れていたのかもしれない。

 目を閉じると、またあの夢の中に戻れる感覚があった。女たちが闘っているあのただなかに。呑気に漂って、俺は……。


 扉の向こうで「ああっ!」と産婆たちの大声が上がった。


「塔子が……」


 ……


 オギャー! オギャー!


 不意を突いて、とてつもなく元気な声が、闇を切り裂いた。

 赤ん坊が生まれたのだ。

 長内は弾かれたように飛び起きて、離れの前に立った。間を置かず扉が開かれて、さっき廊下を歩いていた女が飛び出してきた。

「あっ!」

 女は長内を見つけると驚いて立ち止まった。居室で待てずにここまで来ていた夫を一瞬咎めるように睨んだが、すぐ気を取り直して出産の報告をした。

「男の子です」

 女は言った。 

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