第10話 帰還
「見てるからな」
長内を家のなかに引きずり込むと、若者のひとりは言った。服の上からもその盛り上がりがはっきりとわかる、しっかりと密度を感じさせる僧帽筋と上腕二頭筋は、また同じことをすれば今度はこの程度ではすまないことを暗にもの語っていた。
「あんたがものわかりのいい人であることを祈るよ」
そんな言葉を残して、男たちは
「待ってくれ。せめてさっき何があったのか、教えてくれないか?」
長内は彼らを引き留めた。ひとりがゆっくりと振り向いて言った。
「それはなあ、まあ。……死んだんだよ」
「見てのとおりさ」
もうひとりも振り返って言い、こう続けた。
「まあ心配しなさんな。もうすぐあんな景色は嫌ってほど見ることになるぜ」
「穴掘りも手伝ってもらわなきゃならねえしな」
始めに口をきいた男が言った。
そして二人は「監視している」ということを示すかのような恫喝に満ちた視線で長内を見据え、ドアを開けて出ていった。彼らのその形相は何か悪鬼のようなものを連想させた。
どうすればいいんだ……。
絶望的な気分で居間に入り、ソファに腰かけながら長内は思った。どうやらとんでもないところに入り込んでしまったらしい。愛する妻の故郷が、こんなわけのわからないおそろしい村だったとは。
ひとりで冷静になると、すぐにあの卒倒した男の顔が思い出された。
思い出すだけで、長内は胃から内容物が逆流しそうな感じを覚えた。それほどにその顔は、見るべからざる忌々しいものに思えたが、特にその男の遺した表情が長内の心を捉えていた。青黒く変色し、ガスを吹き込んだかのように膨張した皮膚にカッと見開いた目と口、とてつもない恐怖に怯え切った末に、節穴のようになってしまった眼窩はまるでこの村の人間を襲う逃れようのない魔の手の存在を表しているかのようだった。夜に訪れてくる女たちのひとりが言った「どこにも逃げられないし、逃げても意味はない」という言葉が記憶の底から浮かび上がってきた。
本当に、どんな村なんだ、ここは。
頭を抱え、テーブルの上に突っ伏した。だが辺りを覆う沈黙はそのよそよそしさを増すばかりで、何ひとつ長内に正解を教えてはくれない。このままでは本当に気が狂いそうだ。
咄嗟に長内は、自分のノートパソコンを開いた。意識の正常さを保つために、やり慣れた作業に没頭しようと思った。長内はカタカタと音を立てて、組み立てている途中のプログラミングに取りかかった。
いっときでも、全てを忘れるために。
その翌日から、長内の寝室をまた女たちが訪れ始めた。女たちはいまや公の許可を得たかのように、堂々と長内の寝室に立ち入るようになっていた。以前、暗闇に紛れて部屋の隅にうずくまり、長内が眠りに落ちるのを待っていたころの態度はおくゆかしいものであったと思えるほどに。彼女らはどうやら、塔子の家の鍵を渡された上で玄関から入り込んできていたらしい。長内が風呂に入っているあいだか何かの隙に入り込み、寝室の物陰に隠れて長内が入ってくるのを待ち、さらに電灯が消えてからは長内が眠りに落ちるまで待機していたのだということだった。
この村に着いてからというもの、俺のプライベートはなかったということか。
長内は落胆した。歓迎されているものと思っていたのに、この村は自分のある〝能力〟――つまり生殖能力だが――だけを目的に自分を閉じ込め、こうやって毎夜毎夜搾取しているというわけだ。だがなぜ? 何のために?
塔子に会いたい。塔子に会って、彼女の口からその理由を聞きたい。
近ごろの長内の望みは、そのことひとつに絞られていた。若い女たちの誘惑に負け、体が反応してしまうことによる妻への罪悪感は、あまりにも日常的に繰り返される行為のせいで完全に麻痺してしまっていた。長内のなかでは、そのことはもうすでに食事を摂るのや睡眠と同義のものと化していた。健全な日常生活の反復(健全、というわけでは決してなかったかもしれないが)、といったレベルまで、その行為は自動化してしまっていたのである。
そんなようにして、数日が過ぎた。その日は雨が降っていた。前の晩の夜半過ぎから降り始めた雨は朝になっても止まず、付近一体をしっとりと濡らし続けていた。
長内は朝からプログラミングに熱中していた。何かに打ち込んでいないとと気が狂いそうになるので、自分の神経を落ち着かせるためだった。だがありがたいことに、仕事に没頭しているあいだだけは、この狂気の村での自分の境遇について考えずに済むのだった。
雨音を聞きながら、小一時間もパソコンに向かいカタカタとキーボードを打っていただろうか。長内はふと物音を聞いた気がして顔を上げた。
車通りもないため大抵はシーンと静まり返っている塔子の実家では、物音といえば付近の藪のなかを移動するイタチやタヌキなどの小動物の足音であったり、野生の鳥たちが鳴き声を上げたり何かの拍子に枝を揺らす音などだけだった。
ところがいま、雨音の隙間から聞こえてくる音は、明らかに誰かが草を分け、玄関前の砂利を踏み、外壁を回り込んで小さな庭に入ってくる音だった。
人だな。
長内はにわかに緊張した。先日のあの荒くれ男どもの顔が脳裏に浮かんだ。あの頭のネジが切れてしまったような乱暴者たちが、自分に害を及ぼそうとして再び戻ってきたのだろうか。「見てるからな」と奴らのひとりは言った。村人たちは、常に自分の動向を見張っているのだ。だがそれにしても奇妙なことだ。家から出もせずに、ひとり自分の仕事に打ち込んでいるだけなのに。
台所へ行き、万能包丁を持って戻ってきた。居間のサッシ戸越しに、庭の方を覗く。
草の生えた土の上を、ゆっくりと歩く足音がした。それは勝手口のほうを回り、少しずつこちらへと近づいてきていた。
誰だ……。
自分の持つ包丁が、相手にどの程度効力を持つものか計りかねたが、それでも何もないよりはましだろうと考えた。いま不審者としてこの家の敷地に入り込んできた奴が、先日のならず者たちのひとりであればアウトだ。
ザ。ザ。
足音はさらに近づいてきた。近くに来ると、その足音からは、戸惑いのような、不安のような、不思議なおぼつかなさが感じられるのがわかった。
長内はサッシのガラス越しに警戒を続けた。そしてついにその足音の主の姿を見た。
足音の主は、人間だった。無論それはわかっていたが、それは長内に見覚えのある人間だった。
それはつい先日、悦子に言われて村の男たちと穴を掘り、その遺体を埋めたはずの亡くなった男だった。
そんな……あり得ない。
長内は息を呑んだ。だが死んだはずのその男は、頭から足先までを土にまみれた体で雨に打たれながら、この家の庭に歩を進めているのだった。
午後の薄暗い雨煙のなかで、その姿はまるきり幽霊そのものだった。
長内はしばらくのあいだ、その男と対峙していた。そして観察しているうちに、男の顔がぼんやりとして、前後の区別もつかないようである様子に気づいた。
「おい、あんた」
長内はサッシを開け、男に声をかけた。男は虚ろな表情で、頭から雨を受けて濡れ続けていた。見たところ、どこにも怪我などを負っている様子はない。
「大丈夫か」
そう言って、長内は男を招き、居間の上がり口に座らせた。男についた泥が、カーペットを汚した。
男は気絶から醒めたばかりの人のようにぼうっとした表情をしてしばらく前を見ていた。だがだんだん自分を取り戻そうとするかのように、左右をキョロキョロと見回し始めた。ここがどこだか、自分は誰なのかを思い出そうとしているようだった。
「あ……」
男は声を発したが、それだけだった。生身の身体として、声帯の震わせ方をようやく思い出したという感じだった。
どうしたらいいのかわからない状況のため、長内はすぐに本家に電話をかけることにした。
電話に出ると、本家の人間は「すぐに人を差し向ける」と応答した。そしてこの前ののらりくらりとした対応は何だったのかと思われるほど早く、ものの五分で数人の村人が到着した。
村人たちは、その男の身内のようだった。彼らは、言葉が出ず一時的な記憶喪失状態のように見える男を取り巻き、男の名前を呼んだり、体についた泥をぬぐってやろうとしたり、賢明に看護した。
「お前の名は
大声で、兄と思しき男性が話しかけた。それでもまだしばらくのあいだはぼんやりと虚空を見つめていた男は、徐々にではあるが目に光を取り戻し、
「ああ!」
と叫んだ。
「還ってきた。俺、還ってきたんだな」
突然目に焦点を結び、男は喜びの声を上げた。それを聞いて、彼を取り巻いていた身内の者たちも一斉に歓声を上げた。
「よしよし。これで安心だ」
兄と思しき年長の男性は、満面の笑顔を浮かべてそう言った。
「お世話になりました」「これでもう」
などと口々に言うと、身内の者たちは泥だらけの男の身体を抱えるようにして立たせ、庭を回って通りへ出ていった。長内は玄関先まで出て彼らが角を曲がるまで見送ったが、視界から消えるころになっても門口隼人の足取りはふらふらとおぼつかなかった。
還ってきた、と男は叫んでいた。長内はたったいま見聞きした場面を反芻していた。
あの男は確かに死んだはず。村の男たちが遺体を運んで来、長内も手伝って掘った穴のなかに無造作に放り込んだのだ。
そしてあのときの男の顔。そのイメージはいまでも長内の脳裏に強烈に焼きついていた。あれほど禍々しいものを長内はそれまでの人生で見たことがなかった。あの顔はまさに、地獄に一直線に運ばれていく苦悶に満ちた亡者のそれであった。
なのにあの男はこの世に戻ってきた。雨のなか、泥だらけになって。
「墓穴からゾンビのように甦ったんだ。しかも自分で土をどけて」
長内はひとりでつぶやいた。
言葉にすると、いよいよこの村の異常さが正面から迫ってくるような気がした。
この村は、異常だ。だがそれは、普通の異常さではない。
長内は震え、思わず空を見上げた。自分がやってきた社会とここは空で繋がっているはずだった。
だがいまはもう、そのことがとても信じられなかった。
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