第5話 穴
夜が明けた。最悪な気分で長内は布団から出た。
「何ていう村だ。狂ってる」
それが朝一番に長内が発した言葉だった。
顔を洗い、身支度を整えながら、本家に電話するべきか迷った。昨日の時点とはもうわけが違う。一昨日の夜のことは悪い夢であったと思い込むこともできたが、昨夜の出来事ははっきりとした覚醒下でのことだった。長内は、自分の〝意志を持って〟あの少女と交わってしまったのである。
「臨月の妻がいるっていうのに、二日も連続で若い女とやったって、あんたそのこと本家に言えるの?」
昨夜の少女の突き刺すような言葉が脳裏に残っていた。
何か苦い、嫌なものが胃の奥からじわじわと湧き上がってきた。何でこんなことになってしまったのだろう。塔子はどうなっているのか。
朝食を摂る気になれず、ただコーヒーだけを沸かしてゆっくりと飲んだ。
やりかけの仕事を続けようとして始めてみたが、昨日まではあった集中力はどこかへ消え失せてしまっていた。始終塔子のことが気にかかり、女たちのことを知られたらどうなるのだろうと、絶望的な気分になった。
だが、このままではいけない、と気を取り直した。何せ妻の居場所も安否も、何もわからない状況なのだ。少なくとも何かアクションを起こさなければならないだろう。ここでこうしていてもただ一日が過ぎるだけで何も起こらない気がした。
長内は、思い切って本家に電話をかけてみた。昨夜と同じように、プルルルル、プルルルル、と長いあいだ呼び出し音が鳴っていたが、今朝は十回ほどの反復のあと、受話器が取られた。
「もしもし」
表情を欠いた、女の声が言った。
「もしもし。あのう、塔子の夫なんですが」
わけもなく申し訳なさそうな口調になる。電話の相手が昨夜と一昨日の夜の女たちとのあいだに起こったことを知るはずもないのだが、なぜか村じゅうがそのことを知っているような気持ちになっていた。
「ああ、長内さん」
女の声色は、途端ににこやかなものに変わった。そして続けて、何かありましたかと尋ねた。
「妻の状態を知りたいんですが……。あの、一昨日から音信不通なもので」
音信不通、などという不安な言葉を発してしまったのを後悔した。それはまるで、これからの自分と塔子の関係性の行く末を暗示するものであるかのように感じられたからだ。確かにこの村に着いてから長内の感じ続けてきた感覚は、その直感をなぞり書きするかのような数々の出来事によって正解を与えられているようだった。
「ああ、そうですか。塔子はねえ、確か産婆さんのところにいるんじゃなかったかな……」
親切そうなその女の声は、だがその親切さのゆえに正確性を欠いているように聞こえた。しばらく手元の紙類のようなものをガサゴソといじくるような音が聞こえていたが、最終的に女の返事は、
「長内さん、心配ないですよ。産婆さんのところにいるから」
という言葉で締めくくられた。
「それで」
長内はジリジリしながら聞いた。全くこの村の連中ときたら、何を尋ねても要領を得ない。
「妻はいつ実家の家に戻れるんですか。それが知りたい」
強引な口調になっているのを自分でも感じていた。けれど要点をズバリ言わなければ、ここの人々からは知りたい答えは引き出せないと、長内は感じ始めていた。
「まあ、それは産婆さんの決めることですから」
ところが、答えはこうだった。では産婆さんの家を教えて下さい、と詰め寄っても、「出産を控えた女のいるところに男が立ち入るものではない」とピシャリと跳ね返された。産婆への連絡もできないのかと尋ねると、人づてなら可能だとの答えだった。
「わかった、じゃあ、せめて塔子が元気でいるのか、出産は順調にいきそうなのかということだけでも聞いてもらえませんか」
しまいには泣きそうな心地になりながら長内はこう言っていた。
わかった、と電話口の女は言い、電話は切られた。
昼過ぎごろ、悦子から電話がかかってきた。塔子からの連絡を待って、いまや役立たずのただの板のようにしか見えないスマートフォンを恨めしそうに眺めていた長内はすぐに応答した。
「こんにちは、長内さん」
一昨日と同じように感じのいい声で悦子は言った。長内は向こうが用件を話すより前に、塔子と連絡が取れないこと、今朝本家に電話したが欲しい情報が何ひとつ得られなかったこをを切々と訴えた。夜訪ねてきた女たちのことは、もちろん言わなかった。
「そうですか……」
電話の向こうで少し何か考えているような沈黙のあと、悦子は話した。
「こないだも言いましたけど、産婆さんのところにいる限り、塔子は心配ないですよ。旦那さんがあまり心配し過ぎるといい子が生まれてこないって言い伝えも村にはありますからね、男らしくドンと構えていて下さいな。この村では出産の準備はとても大切なことなんです。……何、塔子から聞いてませんでした? そうですか。でも、この村の女は、子供を産む前には入念な支度をするんですよ。特に初産のときはね……。それはもう、人生で一番の重要ごとのように」
こちらに口を挟む隙を与えず、つらつらと悦子は話した。村の言い伝えなどという言葉を出されては、長内も従うしかなかった。しかし、初産の塔子を思いやるならせめて少しだけ見舞うなり何なり、夫らしいことをしたかった。そのために自分は、一緒にこの村についてきたのではなかったか。
ところで、と悦子は電話をかけてきた本題に入った。
「長内さん、お仕事はお忙しいですか?」
「……いや、まあ時間的には余裕はありますが」
今日はプログラミングの仕事になど集中できそうになかった。昨夜からあまりにも色々なことが起こりすぎて、神経が擦り切れそうになっていた長内はそう答えた。
「そうですか、良かった」
電話の向こうで悦子は笑ったようだった。そしてすぐ、長内にこんな依頼をした。
「もしできたら、ちょっとした力仕事を手伝っていただきたいのですが」
「力仕事?」
何だろう、と思ったが、引き受けることにした。今日はむしろ外出したい気分だったし、村のほうから自分の力を必要として頼みごとしてくれるというのは嬉しかった。塔子の夫として、面目が立つような気がするからだ。
では、三十分ほどあとにお迎えに上がりますので、と悦子は言った。わかりました、と応え、長内は電話を切った。
きっかり三十分後に、悦子は迎えに来た。にこやかな笑顔で玄関先に立ち、不足しているものはないかと再び聞いてくる。その過剰なまでの親切さはいまや少し気味悪いほどになっていた。
当面のところ、必要なものは足りている、と長内は答えた。そして靴を履き、先導する悦子のあとについて歩き始めた。
悦子は塔子の実家の前の上り坂になっている道をどんどん歩いて、村の裏山のほうへ入っていった。周囲はだんだん藪に囲まれていく。悦子の歩くのは早く、長内はほとんど小走りになってついていかなければならなかった。
息を切らしながら、急な坂道をようやく上り終えたところで、ぱっと辺りが開けた。そこは何もない野っ原で、林のなかに突然開けてできたもののように見えた。
そこには五、六人の男たちが集まっていた。それぞれ手にスコップやシャベルを握っている。
「長内さん、今日は少し力を貸してください」
振り向いて悦子が言った。
「これからここに、ちょっとした穴を掘らなければならないのです」
穴。
ちょっと不気味な予感がした。ギャング映画の観すぎかもしれないが、この状況ではどうしても嫌な妄想をしてしまう。シャベルなどを手にした複数の男たち。穴を掘れ、という指示。
まさか、と頭を振ってそんな考えを振り払う。論理的に考えて、まずそんな筋書きになるはずはない。妻を思ってふるさとへの帰省についてきた夫を殺して埋める、そんな理由がこの村にあるわけがない。
そう考えて自分を奮い立たせ、長内は前へ出た。村の男たちはそれぞれひととおりの挨拶をした。声を発する者、会釈だけのものとさまざまだったが、それでも村長の家の人間である塔子の夫であるという地位に示す敬意というものは感ぜられた。
「俺たちも一緒に掘りますから」
一番年齢が若く見える男が言った。様子から言って二十四、五ぐらいか。周辺を囲む男たちも皆、二十代から三十代以上に見えるものはいない。
男たちは地面にシャベルを立て、黙々と穴を掘り始めた。見ると彼らが掘る地面はその周りと違って草が生えておらず、しかもまるでよく耕された畑のようにフカフカした茶色の土がむき出しになっている。日ごろから何度も掘り返されている結果、そのような表面になっているような感じだった。
その柔らかい土のおかげで、穴掘り作業はスムーズに進んだ。五、六人の村の男たちと長内で堀り進めて、小一時間のちには縦二メートル、横六十センチ、深さ三十センチほどの穴ができた。
「もうちょっと深さが欲しいかな」
「いや、もう充分だろう。あんまり深いと、な」
二人の男が小声で話し合っている。何のことを言っているのだろう。そう思いながら、見守るようにずっと近くで立っていた悦子のほうを振り返った。
「今回は、もうちょっとだけ深く掘ったほうがいいかもね」
適格なアドバイスを入れるかのように、きっぱりした口調で悦子が言う。男たちは素直にうなづき、さらに深く穴を堀り始めた。
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