第4話 邪淫

 午後になり、ひとりで昼食を作って食べた。それからまた仕事に戻り、システム構築に精を出した。いったん仕事を始めると長内は熱中する性質たちで、よく時間の経つのを忘れてしまうことがある。その日も真剣にプログラムと向き合っているうちに、夕方になり、日暮れを迎えてしまった。

 しまった、悦子か本家かに連絡してみようと思っていたのに忘れていた。

 そう思った長内は、慌てて今度は本家の番号のほうへかけてみた。時刻はまだ午後七時。誰か出るだろう。


 ところが、着信音は鳴るものの、いくら待っても電話に出るものは誰もいなかった。番号入力を間違えたのだろうか? そう思い、もう一度入念に番号を確認しながら入力し、かけ直してみたが、やはり誰も出ない。そもそも番号が間違っているのか? 悦子が書き間違えたのだろうか? それも考えにくかった。

 仕方なく悦子のほうにかけてみた。もうどう思われようとかまわない、と思いながら。

 ところが悦子も電話に出ない。どうしたことだろう? 田舎の村は、皆休むのが早いのだろうか。


 外へ出てみたが、辺りは鼻をつままれてもわからないくらいの暗闇だった。塔子の両親の家は村の外れにあり、その家を過ぎればあとは鬱蒼とした雑木林が幾重にも連なる広大な原野だ。悦子に案内されて初めてこの家に着いたときに見たのだが、山の上に向かってまだしばらく未舗装の道が伸びているもののその先には何があるのかわからなかった。


 日が暮れてしまっているいま、外灯もない真っ暗な道の上を歩いていくのは危険に感じられた。スマートフォンの懐中電灯を点けて照らしてみたが、その辺りは近所にも家が少なく、妙に物音もなくシンとしていた。何しろ周囲一帯は原野に囲まれている。急に動物にでも出くわしたら対処できないな、と長内は思った。


 何とはなしの不安を感じて、結局家のなかに戻った。明日にしよう。明日、夜が明けて明るくなったら家を出て、本家を訪ねてことわけを聞いてみよう。

 まだ自分はこの村に来て一日しか経っていないのだ。この村の詳細を知っていくのはこれからだ。明日また村長や悦子に会って話せば、塔子のことやこの村のことももっと詳しく知ることができるだろう。長内は知らず知らずのうちに自分を励ますようにそう思った。


 ひとりで夕食を作って食べている時間も、風呂に入っているあいだも、長内はいつ塔子から連絡が入るからわからないと思い、スマートフォンを目の前に置いていた。だが一貫して何の動きもなかった。そうしていると、その薄く平たい通信機器は、何の存在価値もないガラクタのように見えてきた。その夜は夜遅くまでパソコンの前に座って仕事をしたが、いつまで経っても塔子からは何の連絡もなかった。

 夫を何だと思ってるんだ――。


 ついにイライラして気分が悪くなった長内は、すねたようにスマートフォンを一階に放置したまま二階の寝室に上がってしまった。

 自分にはわからないけれど、何か連絡もできない事情が発生したのだろう。もしかするとふるさとに帰って気が抜けて、体調が悪くなってしまったのかもしれない。産婆のところにいるのならきちんとケアはしてもらっているだろうが、やはり心配だった。

 明日の朝になったら、塔子から謝罪のメッセージか何かが入ってきているはずだ。念じるように、そう考えた。電話が繋がれば、優しく許してやろう。だが自分を心配させた代わりに、この家にできるだけ早く戻ってきてもらおう。そろそろ塔子の不在に長内は不安を覚え始めていた。

 寂しい。

 本音を言えば、そういった気持ちもあった。


 ――寝ついてからしばらく経ったころだった。夜のしじまに、微かな衣擦れの音が交じり始めた。

 気持ちがたかぶっていたせいか、昨夜ほどはすんなりと眠りに落ちることができなかった長内が目を開けると、そこには信じられない光景が待ち受けていた。

 女だ。

 昨夜と同じように、また暗い部屋の片隅に女がしゃがみこんでいる。いつからそこにいたのかわからないが、少しずつ動き出したらしい。それで衣擦れの音が起こったらしかった。

「……」

 やむにやまれぬ恐怖で、長内の体はまた硬直していた。金縛りというやつか……? この家には怨霊の類が棲みついているのだろうか。

 いや、違う。

 直感的に長内は思った。何かが違う。というのは、昨夜も感じたことだが、その女には霊的な気配が感じられないのだった。少しずつこちらに近づいてくるにつれて感じる気圧の変化も、そのときに立てる物音も、やけに質量を持っていて、生身の人間の存在感を感じる。


 女はとうとう長内の寝ている真横に来た。畳の上の直に布団を敷いているので、その顔は間近にあった。

 そのとき長内は奇妙なことに気づいた。この女、どうも夕べ布団に這い込んできた女とは違うようだ。夕べの女より小柄だし、年ももっと若いようだ。

 やはり幽霊などではない。そう思うと、逆に背筋に冷たいものが走った。

「……」

 無言のまま、女は夕べの女と同じように長内の布団に入ってこようとした。夕べは疲れて深く眠っていたし、全く不意を突かれたので混乱したが、今夜は前もって心構えができていた。

「おい、何のつもりだ」

 長内は言った。女は一瞬ビクッとしたが、布団に入ろうとする行為をやめることはしない。そのまま横に入り、冷たい足を長内の足に絡めてきた。

 逃れようとしたが、その女は冷たい顔を長内の顔に重ね、唇に唇を当ててきた。まるで子供のもののように小さなその唇からは、甘酸っぱい匂いがした。

 長内は昂る気持ちと混乱のただなかにいた。何だ、この女たちは……。

 そうするうちにもその若い女は上体を起こして自分の前開きの寝間着をはだけ、白い胸を露わにして見せた。寝間着の下には何も着けていなかった。

 暗闇のなかでもぼうっと光るように浮かび上がって見えるその半裸体は、長内の目を釘づけにした。

 女は長内の手を取り、自分の乳房のほうへといざなった。

「だ、ダメだ。やめろっ……やめろ……!」

 長内はまた抵抗しようとしたが、あまりにも美しい素直な体の線と、その女が心から自分を欲しているというサインに太刀打ちできなかった。

 自制を失った長内は、女の上に覆いかぶさった。


 激しさを解き放ったあと、体を離してから、長内はまだじっと隣に横になっている女に問いかけた。

「君は誰だ。どうしてこんなことを……?」

「そんなのはどうでもいいことよ」

 女は向こう側に顔をそむけたまま、ぽつりと言った。さっき迫ってきたときの有無を言わさぬ熱のようなものは消え失せ、その声は異様なほど冷たかった。

「どうでもいいなんてわけにはいかない。昨夜も同じようなことがあった。この村はいったいどうなってるんだ? 妻はどこにいる?」

 長内は半身を起こして枕元のライトを点けながら言った。

「あんたは気にしなくてもいい」

 女は今度はこちらに顔を向けて言った。灯りの下で見ると、驚くほど若かった。まだ十五、六歳くらいか。出会ったころの塔子よりも年下なのは明らかだった。

 だがその目は、見ていると背筋が寒くなってくるような凄みを秘めていた。まるで少女の体のなかに大人の、しかも長い人生経験を経て擦り減ってしまった女の魂が入り込んでしまったのでもあるかのように。

「心配しなくったって、あんたの奥さんは安全なところにいるよ……。産婆のところにいるって言われてるだろ? ……この村で、産婆の家ほど安全なところはない。あそこにいる限り護られているし、絶えず隙を狙ってる邪につけ入られる心配もない」

 そう言う少女の目は、まるで人生にんだ娼婦のようにすさんだ色をしていた。そして絶望したようになげやりな仕草でゆるりと起き上がると、長内に背を向け衣服を身に着け始めた。布団に入ってきたときとは正反対の、拒絶するような冷たい態度だった。

「君が答えないのなら、本家か悦子さんに尋ねる。電話番号を知っているんだ」

 長内は言った。くくっ、という低い陰湿な声で少女は笑い、こう応えた。

「尋ねるって、何を? ……臨月の妻がいるっていうのに、二日も連続で若い女とやったって、あんたそのこと本家に言えるの?」

 疲れただろ、ゆっくり寝な、と言い捨てて、少女は部屋を出ていった。

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