第3話 実家
悦子は長内を、塔子の実家に案内した。両親が相次いで亡くなるまで、一家が暮らしていた家だということだった。
悦子は幾つかの軽い荷物を持ち、長内を案内しながら緩い坂道を上っていった。左右には、相変わらず古めかしい木造家屋ばかりが
「この村には何軒くらいの家があるんですか?」
長内は一般的な質問として尋ねた。さあ、と首を
「もう
「へえ、そうですか……」
いっとき、悪魔が通り過ぎるような沈黙が流れた。長内は思い切って聞いてみた。
「若い人ばかり多いですね」
前を歩く悦子の肩が、こころなしかギクッとしたように見えた。
「……そうでしょう。若者ばかりの村といえば、そうですわね」
「お年寄りは、いないんですか?」
畳みかけて、長内は聞いた。それに何か答えようとして、悦子が振り返った、そのときだった。
ちょうど二人が通りがかった家と家のあいだの細い道のほうで、バサッという音がした。反射的にそちらと見ると、道の上に人が倒れていた。
「あっ!」
長内は声を上げた。それは三十代ぐらいの男で、顔を向こう側に向けて仰向けに倒れている。灰色のセーターにジーンズ姿のその男に何が起こったのだろうか、辺りには何もなく、逃げていくような人影も見えなかった。
悦子はその光景を認めても、顔色ひとつ変えず長内にちょっとここで待っていて欲しいと告げると、目の前の家の戸を叩いた。そして出てきた家人に人を呼ぶよう頼んで、倒れている男のところに向かった。
しばらくのあいだ、悦子は卒倒した男の顔を眺めていた。長内の位置からはその表情は見えなかったが、全体的な様子から、悦子が取り乱したり悲しんだりしているようには感じられなかった。ただ男の顔を見、事務的に生死を確認する医者か何かのように、整然と立っている。
やがてさまざまな方向から男たちが集まってきた。卒倒した男は担架に乗せられ、どこかへ運ばれていった。
「診療所に連れていくのですか?」
長内は言った。悦子は視線だけ左右に巡らしてから、いえ、と言った。
「この村に病気はありません。だから病院のようなものは必要ありません」
そして、何ごともなかったかのように前に立って歩きだした。
気候や食べ物が良いから健康を損なう人が少ない、という意味なのだろうか、と思った。
「大丈夫なんですか、あの人?」
長内はただ気になったことを聞いた。
「少なくとも、診療所で診てもらう必要はありません」
にべもなく悦子は言った。そして自分ひとり、スタスタと歩いていってしまった。
その姿には、とりつくしまもなかった。
塔子の実家は、一戸建ての二階家だった。
両親亡きあと、しばらくのあいだ塔子が独りで暮らしていたというその家は、長期間空き家となっていたためガランとしていた。だが事前に村人が入って掃除をしてくれたそうで、家のなかは埃ひとつなく綺麗だった。
今日からしばらくここで暮らすことになるのだ。長内は思った。
「とりあえず食材なんかは冷蔵庫に入れておきましたけど、何か必要なものがあったらすぐに言ってくださいね。できる限りご用意しますから」
悦子はそう言って村長の家と自分の家の電話番号を紙に書いて渡してくれた。長内は礼を言ってそれを受け取った。
そうだ、塔子の携帯に電話をかけてみよう。結婚以来、毎日のように電話連絡をしていた。まめで気の利く性格の塔子は、長内から着信があればすぐに応答したものだった。
塔子の電話番号を出し、タップしてかけてみた。呼び出し音は鳴っている。ところがいつまで鳴らしても、応答はなかった。
おかしいな。こんなことは初めてだ、と思ったが、いたしかたない。上京して以来初めての帰省で、しかも妊娠しているとあれば色々と積もる話もあるのだろう。こういう小さな村のことだ、産婆以外の村人も来て皆で盛り上がっているということかもしれない。落ち着いたら塔子のほうからかけ直してくるだろうと思った。
荷物を置いて荷ほどきをし、簡単な調理をして夕食を済ませ、風呂を入れて湯舟にゆっくり浸かると、二階の寝室に上がって早々に灯りを消した。
今日は都会から山奥の村へ移動し、宴会もあり、人が卒倒しているところに出くわしたりもして疲れていた。目を閉じると、長内はすぐ眠りに落ちた。
――夜半過ぎ、異様な気配に気がついて目を覚ました。
頭を上げると、畳敷きの寝室の片隅に、黒い人影がうずくまっていた。
……誰だ……。
突然の恐怖に声も出ず、体も動かせず固まっていると、その人影は這うようにしてこちらに近づいてきた。
近づくと、どうもそれは女のようだということがわかった。
女はそのまま長内の寝ている布団のなかに這いずり込んできた。
……な、何だ……。
あまりに唐突な出来事に息をひそめていると、女は長内の上に体を重ねてきた。幽霊のような類のものならば、その体は死人のように冷たかったであろう。
だが驚いたことに、その女の体は温かく、生身の重量さえ持っていた。
「だっ、誰だ……何をする!」
長内は女を自分から引きはがそうとするが、重力に訴えて執拗にしがみついてくる女の体は簡単にははがれない。
女は次第に長内の首元に唇をつけ、舌を這わせ始めた。
えっ……。
それと同時に、寝間着のなかに手を入れ、胸や腹をまさぐってくる。
何を……。
何をしているんだ、この女……。
戸惑いながらも、徐々にだが確実に男の本能は刺激されてくる。その上、暗闇のなかでもわかるのだが、女は若かった。塔子に似たしなやかな細い腰を持ち、肌のきめは細かく、その体は若い女に特有の甘いにおいさえ放っている。
長内はいつしか、女の思うままに体を重ねていた。
翌朝目が覚めると、長内は独りで寝ていた。
畳に敷いた布団はそのままで、上架けは夕べ眠りに就いたときと違わずきちんと体にかかっている。塔子からの着信はまだなかった。
あの女は何だったんだろう……。
悪い夢でも見たような気分だった。
起きるとすぐ、長内は悦子に電話をかけた。スマートフォンの呼び出し音がしばらく鳴ったあと、悦子が電話に出た。
「もしもし、おはようございます」
能天気な明るい声で、悦子は言った。
「昨日はお疲れだったでしょう? よく眠れましたか?」
昨日、案内の途中で見せた奇妙な態度はなかったかのように、長内のことをねぎらってきた。それどころじゃない。長内は昨夜の出来事を悦子に話した。
「えっ。幽霊が出たっておっしゃるんですか」
悦子は言った。とぼけたような声だった。違う。幽霊なんかじゃない。実際に、女が布団のなかに這い込んできたんだ。そして……。
「部屋の角に。黒い影がいて?」
途中まで話して、ひどく気まずいことであるのに気づいた。その女とのあいだに起きたことに言及するのを、長内はためらった。
「とにかく。変なことが起きたんです」
つい、そう言うに留めた。ああ、と悦子はまた明るい声で笑った。
「昨日はまあ、お疲れでしたでしょうし、途中あんなこともありましたものねえ。悪い夢を見ても不思議はありませんよ」
そんな風に言われると、次の言葉が出てこなかった。あれは疲れすぎていたせいで見た、悪い夢だったのだろうか。そう思うと、だんだんそうとも思えてきた。
いまも残るいやにリアルな感覚を押し殺すようにして、曖昧な返事をすると、長内は電話を切った。スマートフォンの点灯が消えると、困惑の混じった沈黙があとに残った。
さて、とはいえ、とりあえず一日を始めなければならない。長内は顔を洗い、朝食の支度にとりかかった。結婚して以来、塔子は積極的に長内に料理や掃除の仕方など家事を教えた。まるでここに戻ってくることを見越していたようだな、と苦笑が出た。
家のなかには、食料や生活必需品は不自由のないように全て用意されていた。米を研ぎ、炊飯器に入れてスイッチを押す。それから冷蔵庫を開け、豆腐と味噌を取り出し、手際よく味噌汁を作っていった。味噌汁ができ上がってから、仕上げにワカメを入れる。豆腐とワカメの味噌汁は長内の好物だった。
白米のご飯に味噌汁、それに漬物だけの簡単な朝食を終え、皿を洗い終わるとようやく人心地ついた。
昨夜の奇妙な出来事は、頭から追い払うことにした。考えたって何も始まらない。悦子の言うように、疲労と様々な刺激から脳が引き起こした錯覚だろう、それで説明はつく。システムエンジニアである長内は、論理的にものごとを考えるタイプだった。幽霊が出たなどとは考えたくなかったし、それにあの女のリアルすぎる肌の感触を思い出すだけでも塔子に対する裏切りのように思えて、早く忘れてしまいたかった。
ところで、塔子はどうなっているのだろうか。元々この村に来たのは妻のためだった。昨日は産婆のところに泊まったのかもしれない。が、夫である自分に何の連絡もなく、朝になっても帰ってこないというのは変だった。
もう一度悦子に電話してみようかと思ったが、いましがた連絡したばかりだし、用件もあのような話だったので、神経質な夫と見なされそうでためらわれた。長内はとりあえず、自分のやるべきことに専念しようと思った。
居間のソファセットのところに行って、仕事道具を広げた。ノートパソコンとマウス、それに幾つかの書類と依頼主の企業から受け取ったシステムマニュアル。当面の仕事はこれだけがあればできる。いま長内はある企業からの依頼でリモート会議を円滑に行うためのソフトを製作していた。村ではネット環境が整っていないと塔子から聞かされていたので、ネットに接続せずとも自分のPCだけで完結する製作プランを組み立てた。納品の期限は来月の末だったので、充分な時間的余裕がある。塔子が出産を終えて落ち着くまで、ゆっくりここで付き添ってやるつもりだった。
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