第2話 村

 悦子のあとについて歩いていくと、ほどなく村の入口に辿り着いた。ちょうどそこに居合わせた幾人かの村人たちが歩み寄って、次々に挨拶していく。

「塔子、よう帰ってきたなあ」

「本当にまあ、大きなおなか」

「ご主人も一緒に帰ってくれて、何て優しいこと」

 そう言って、悦子と長内夫婦のあとに続き、一緒について来る者もいる。誰もが皆、塔子の帰村を心から喜んでいる様子だった。


 村内を歩きながら、長内はある違和感を感じていた。周囲を鬱蒼とした林に囲まれた村は、幾つもの家屋の連なりのあいだを縦横に道が走っている。大昔の街道を思わせる未舗装のその小道は車一台がようやく通り抜けられるかどうかといった程度の幅である。実際、その小道を車が走っている様を見ることはなかったが……。一行は、端々に雑草の生えた柔らかなその道を踏みながら、本家と呼ばれる大屋敷へと向かっていた。


 道すがら、長内は入村して以来つきまとっていた違和感の正体に気づいた。この村には、近代的な建築が一切見られないのである。

 進んでいく道の左右には、いつの時代からのものとも知れぬ、古い伝統的な様式の日本家屋が並んでいた。どれひとつ取ってみても昔ながらの木造住宅で、普段我々が見る鉄筋や鉄骨造りの〝普通の住宅〟というものではない。屋根は瓦葺きであったり茅葺きであったりの違いはあるものの、ほとんどが苔むした年代物だった。家を形成する板壁も相当に年季の入ったものであることがひと目見ただけでわかる。たまに隣の家に比べ新しいように見える建物もあったが、それもまた昔から変わらぬ伝統的な日本家屋の造りは同じで、村には熟練の大工がいるものと想像された。

 やがて、本家に着いた。塔子を先頭にして大仰な屋根付きの木戸をくぐった一行は、そのまままっすぐ庭の敷石の上を歩き、その先にある広い玄関に迎えられた。


 上がりがまちには、三十代後半ぐらいに見える女性が背筋を伸ばして座っていた。ここに来るまでに出会ったほかの村人たちと違って、妙にかしこまった、謹厳な印象を受ける固い表情をしていた。

「塔子、おかえり。体は辛くないか?」

 それでも女はにこやかに微笑んで、妊婦である塔子ねぎらった。

 一行は女にいざなわれ、黒光りする長い廊下を縦に並んで歩いていった。二度か三度、直角の角を曲がったあと、またしばらく歩いて大きな座敷の広間に入った。


 そこはまるで宴会場のような広さで、ものの数人である一行が入ったところで、寒々しさがいや増すようなところだった。正面に向かって左側にある床の間には大きな生け花が飾りつけられてあり、その隣にはいつの昔からあるのかわからない、古過ぎて全体が黒っぽく見える造りつけの祭壇がある。仏壇か神棚のようだが、そのどちらとも違って見えた。

 そしてその前に、ひとりの男が威を正して座っていた。見たところ、決して年配ではない。この村に入ってから長内が会ったほかのすべての人間と同じく、妙に年若い。顔に皺もなく白髪の一本も見受けられず、玄関で一行を出迎えた女とさして年齢は変わらぬようだった。多く見積もっても長内と同じ年くらいか、少し上といったところだ。

 何とも言えぬ不思議な気持ちを隠せぬまま、ほかの人々がするのにならってその男の前に座った。

 男が声をかけると、塔子が座ったまま前に進み出た。その顔は、長内が見たことがないほど穏やかで従順な表情をしていた。

「塔子。よく戻ってきた。お腹の子は順調か?」

 男がゆっくりとした口調で聞いた。塔子は幸せそうに微笑んで、

「はい」

 とだけ答えた。

 広間全体に、和やかな空気が流れた。人々は微笑み、慎ましやかな笑い声を立てて、もうひと月以内には叶うであろう嬰児みどりごの誕生を予祝した。

 次に男は、長内のほうに顔を向けた。

「ご主人は、長内さんとおっしゃいましたね。塔子から常々お話を伺っておりました」

 そう言うと、畳の上に手をつき、長内に向かって深々と頭を下げた。

「塔子が大変お世話になっております。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます」

 あまりにも丁重なその挨拶にいささか面食らいながらも、長内も頭を下げ、敬意を示した。

「いえ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いいたします」

 何だか何らかの厳粛な儀式のようで面映おもはゆかったが、周囲の人間からも、長内を歓迎するような温かい空気が感じられた。どうやら自分はこの村にいたく歓迎されているようだな、とそのとき長内は思った。


 祭壇の前に座っていた男は塔子の親戚で、村長むらおさだということだった。塔子は両親を亡くしたあと、村長の家で育てられたという。

 村長というにはいやに若いな、と長内は不思議に思ったが、男の指示で立ち上がった人々が座敷のなかをてきぱきと動き回り始めたので何をしていいかわからず、それをじっと眺めていた。

「私の故郷を見て、驚いたでしょう」

 いつの間にか隣に立っていた塔子がそう囁いた。ふるさとに帰ってリラックスしているようだった。塔子の肌からは、いつもつけている甘い香水の匂いがした。

「こんな山奥の小さな集落だけれどね。昔からみんなで協力し合って生きてきたの」

 塔子は微笑みながら言った。

「まあ、でも。君を育ててくれた村だものね」

 長内は優しい夫を演じようとして言った。ここに着いてからいままで見てきたものの全てに、首をかしげるような違和感を抱いていることは、あえて黙っていた。もしかするとそれがここの常識であるのかもしれず、村外から来た余所者よそものの自分にとやかく言う資格なぞあるまい。そう思ったからだった。


 二人は壁際に立って村人たちが立ち働くのを見ていた。いつの間にか外からも加勢が来たようで、座卓や大量の座布団を持ち込んでいた。やがて温かい料理の匂いが漂い始め、酒やビールも登場した。

「親戚の人たちが、私とあなたの歓迎会を開いてくれるのよ」

 塔子は嬉しそうに言った。

 

 総勢三十人ほどの人間が居並び、宴は始まった。村長という男が音頭を取って乾杯が行われ、各々が喜びの表情を表しながら酒を酌み交わし、料理をつまんだ。

 長内は塔子とともに、村長のすぐ隣、最も上座に席を用意されていた。山の幸の御馳走はどれも美味で、土地の滋養が感じられるものばかりだった。酒もまた旨かった。聞けば、この村で作られるものだという。

 それでもまだ長内のなかには、落ち着かなくさせられる違和感が残っていた。


 若過ぎる。


 それは、このひと言に集約されていた。

 普通村の親戚での宴会といえば、老若男女全ての年代が集まるものだ。そこには祖父祖母の世代も含まれるはずだが、いまこの場にはどう見ても若者しかいなかった。一番位が上だと見られる村長が三十代後半、そのすぐ横に座を占めている玄関先で一行を出迎えた女は村長の妻と思われるが、それもまた同じくらいの年齢のようであるし、そのほかの人間のどれをとってみても皆二十代や十代、そしてその子供たちと思しき幼児ばかりである。まるで地区の盆踊りとか運動会の打ち上げで集まっている人々のような雰囲気だった。

 子供の数は多かった。見回してみると各家庭に必ず二人か三人はいるようで、やんちゃ気をまき散らしては大騒ぎしているのもいる。

 つまりは、こういうことだろうか。長内は想像を巡らしてみた。

 ここは、若者ばかりが集まって生活している新興のコミュニティのようなところなのではないか。ほら、よくあるじゃないか、都会の生活に疲れてしまったり、始めから社会になじめなくて田舎に移り住み、自分のスタイルを見つけて幸せになっている若者なんかが自然と集まって集落を形成しているって話……。

 それとも最近の傾向として、自然のなかで子供をすくすく育てたいという考えの若い夫婦たちが集い、山奥に村を形成しているといった特殊な事情なのかもしれない。

 いずれ塔子に聞けばわかる、そう軽い気持ちでいた。


 宴もたけなわとなり、歓迎会は穏やかな雰囲気の内に終了した。村人たちは、たらふく飲んだ酒にも何の影響も受けなかったように、宴会が始まったときと同じようにエネルギッシュに立ち働き、どんどん会場を片づけていった。

 ふと見ると、横にいたはずの塔子がいない。トイレにでも言ったのかと思いしばらく待っていたが、いつまでも帰ってくる気配はない。

 キョロキョロと辺りを見回していると、悦子が近づいてきて言った。

「塔子はちょっと、産婆さんのところへ行ったんですよ。産み月が近づいていますからね、お腹の子が順調かどうか、確かめてもらうために」

「では、戻ってくるまで待ちます」

 長内は言った。いえいえ、と、首を振りながら悦子は言った。

「今晩じゅうには戻らないと思います。塔子は産婆さんに薬湯を煎じて飲ませてもらったり、産婦としての心得を説いてもらったり、出産に向けての準備を整えないといけませんから」

「そんなに長くかかるんですか」

 やや不安な気持ちになりながら、長内は言った。

「まあまあ、ご心配なく。この村のしきたりですよ。産婆さんのところにいるんだから安心ですし。ご主人と二人だけで、もし妊婦に何かあったらどうします? 対応できないでしょう?」

 さも気楽な口調で、笑いながら悦子はそう言った。

「それは、そうですが……」

 長内はそう答えるしかなかった。

 

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