呪村忌譚
@agataseina
第1話 妊娠
企業を顧客とするシステムエンジニアとして長年働き、三十も半ばになってから初婚でようやく捕まえた年若い伴侶である。周囲は常に冷やかし半分で幼妻のことを茶化してきたが、長内はそれに対して大真面目にこう言って対応していた。身寄りのない、可哀想な子だったんだ。保護してやったようなものさ。
実際、塔子との出会いは突然だった。ある日自動販売機でコーヒーを買おうとしていた長内は、自販機の隣で苦しそうにうずくまる若い女を発見した。
夏の暑い盛り、女はしゃがみこんだ姿勢で地面すれすれまで頭を低くし、聞こえるか聞こえないかというくらいの声で苦しそうにうめいていた。長い艶やかな黒髪はもう地面についてしまいそうだ。
うう、うう、というその声があまりにも痛々しく、しかも容態は急を要するもののようであったので、長内は慌てて声をかけた。
「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか」
すると女はぱっと顔を上げて、長内を見上げた。元々色白であるのだろうが、血の気の引いたその顔は、それを通り越して青白く見えた。冷や汗をかいているのだろう、そのせいで全体にぬめっとして見える肌は女を人間離れしたもののように見せていたが、視線を合わせてよくよく見ると、ドキッとするほど美しい顔立ちをしていた。
長内は女の顔に、胸を撃ち抜かれた。その造作の美しさはもちろんのことだが、下から長内を見上げているその瞳には、ひどく胸騒ぎを起こさせるようなただならぬものを感じたのだった。
「大丈夫です。……ああ、苦しい。……お水を……お水をいただけますか」
女は喉の奥から絞り出すような声でそう言った。長内は急いで自販機でミネラルウォーターを買い、蓋を開けてやって女に渡した。女はペットボトルを口にあてると、ゴクゴクと音を立てて水を飲み、長内が見ている前で一本を飲み干してしまった。
「ありがとうございました」
人心地ついたように身を起こすと、女はすっきりした顔でそう言った。正気になって笑顔を見せると、まだ高校生のようにあどけなかった。
……それじゃ、どうも、と言ってそそくさと立ち去ろうとする長内を制して、女はお礼をさせて欲しいと言った。断ったが、どうしてもとしつこく食い下がってくる。その若さと積極性に押し切られるようにして、長内はその娘とカフェに入った。
娘は十八歳で、塔子と名乗った。地元は田舎の山奥の村で、仕事を見つけに東京に出てきたのだが、村とは違う都会の喧騒と蒸し暑さに体調を崩してしまっていたのだという。
「親御さんも心配しているだろう」
そう言った長内の言葉に、塔子は少し視線を落として両親はいないのだと答えた。そして、幼いころに父と母を相次いで亡くしており、村でも身寄りといったら親戚だけなのだと話した。
そこからは早かった。連絡先を交換し、待ち合わせをしては会うことを繰り返すうち、二人の仲は急速に発展していった。塔子は実年齢よりも大人びて見えた。地元の高校を卒業してすぐに上京したと言ったとおり、本当に十八歳であることはその仕草や言動から明らかだったが、ふとした瞬間の判断力やものごとについての洞察力のようなものが、ほかの十代の人間に比べ極端に秀でているようだった。
長内が年齢差のある塔子との結婚に踏み切ったのも、あるいはそういったことが決め手であったのかもしれない。両親が鬼籍に入っていることと、親戚にはずっと迷惑をかけてきたからという理由で、塔子は結婚のことを故郷に知らせたがらなかった。長内も早くに父親を亡くし、元々虚弱な体質であった母親は最近病気がちで、入退院を繰り返していた。心臓が弱っているので、ひと周り以上も年下の女と結婚するなどということを知らせることはひとまず控えたほうがよさそうだと判断した。
そういったわけで、二人は入籍はせず、事実婚として同居生活を始めたのだった。
一緒になってほどなく、塔子は妊娠した。あまりに早い展開に長内は戸惑ったものだが、十八で結婚した若妻である。健康な体である証拠なのだろう、と素直に喜ぶことにした。
何よりも、長内は塔子を愛していた。若いというだけでなく、年齢にしては大人びているからというだけでなく、この娘には長内を惹きつけてやまない何か不思議な引力があるように思われた。そして生活するうちにわかってきたことだが、いつもどんなことでも、塔子の言うとおりにしておけば、まず間違いはなかった。
その塔子が、臨月を迎えるころになって「故郷の村で出産をしたい」と言い出したのだ。長内はその願いをむげにすることはできなかった。初めての妊娠を控えたまだ幼さの抜けない顔をした塔子をひとりきりで村に返すのは心配だ。というのは言い訳で、長内自身が寂しかったのだが。
システムエンジニアという職種上、リモートでの仕事も不可能ではなかったから、何とか都合をつけて塔子の故郷の村について行くことにした。
「ありがとう。優しい夫を持って、私幸せよ」
そのことを告げたとき、嬉しそうに微笑んで塔子は言った。
故郷の村は、山深く分け入った場所にあった。
とんだ僻地だな、と、草むらのあいだに歩を進めながら長内は心のなかで思った。
いかにも辺鄙な田舎にある小さな駅で電車を降り、そこからタクシーを拾って山道――山道と言ってもいわゆる〝酷道〟と呼ばれるような整備もされていない狭い道だった――を延々と上って、とある曲がり角の手前で降り、そこからは徒歩で村へ向かった。その先の道はといえば、獣道と言ってもいいような、周囲を草木に覆われた異常なほど野生めいた道なのであった。
そのような歩きにくい道を、塔子は身重の体でひょいひょいと上っていった。きつくないのかい、と声をかけると、振り向いて「大丈夫、山道は慣れているから」などと笑顔で返してくる。久しぶりに故郷の村に帰れることが嬉しくて仕方ないといった様子だった。うしろから二人の手荷物を抱えて上っていく長内は、日ごろの運動不足がたたって足は重くなり、絶えず息切れを繰り返していた。
三十分ほど歩いたころだったろうか、道の向こうから人がやってきた。ショートヘアの颯爽とした女性で、喜びを前面に押し出した大きな笑顔を浮かべながら駆け寄ってきた。
「塔子、お帰り! よくまあ、帰ってきた」
よほど嬉しかったのだろう、女は近寄ると塔子をぎゅっと抱き締めた。そして、まるで大きな労をねぎらうように、頭や背中を優しく撫でるのだった。
「この人が、旦那さん」
女は長内の姿を見ると、目を輝かせて言った。
「どうもどうも、遠いところを、よく来て下さいました」
塔子から身を離すと、女は感謝するように深々と頭を下げた。塔子が事前に電話か何かで知らせていたのだろう、自己紹介など何もしなくても、女は長内のことをよく知っているようだった。村へ案内しながら、東京で……エンジニアのお仕事を……などと、こちらが説明する前から一方的に畳みかけるように話してきた。
女は塔子の従姉で、悦子といった。年のころは二十代の後半といったところで、従姉というだけあって二人は顔立ちが似ていた。ともに色白で細身で、背が高い。
「まだ到着してもいないのに、こんなに歓迎していただけるなんて光栄ですね」
長内は言った。個人でビジネスをしていくうちに自然と磨いてきた話術を用いてコミュニケーションを取ろうとしたつもりだった。
すると、悦子はなぜか一瞬すっと冷めた顔になった。が、すぐに気を取り直したように先ほどと同じ大きな笑顔になって、
「ええ、ええ。塔子の旦那さんなら、村中で大歓迎ですよ」
と言った。
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