四十四話 自制の範囲

「あー……………手を出したのか?」

「出してはない」


 自分は駄目な人間かもしれない。そんな独白に対して春明にまず浮かんだ質問をそれだけははっきりと九凪は否定する。


「んー、つまり出しそうになりつつある…………ということか?」

「…………うん」


 少し周囲を気にしながら九凪は頷いた。月夜の側から迫られることがないように彼はそう言ことをしない確約を彼女からとった…………とったはずなのにドキドキさせられている。


 もちろん約束したことはされていないのだけど、その許された範囲内で九凪はドキドキしてしまってしまったせいで自分が駄目になりつつあるのではと思ってしまっているのだ。


「いや別にいいんじゃねえのか?」

「え、いや駄目でしょ」


 自分のことではあるが九凪は即答する。常識的に考えてあの年齢の少女に手を出すことが許されるはずもない。もちろん春明は知らないが九凪は月夜の実年齢が自分よりも遥かに高いことは知っている…………しかしこれは年齢というか体の問題だ。


 単純にそういうことをするのに適していない体つきの相手に手を出していいはずがない。


「いやもちろん手を出すのは駄目に決まってる…………出すつもりはねえだろ?」

「それはもちろん」


 九凪は月夜を大事にしたいから彼女に手は出さないと宣言したのだ。その気持ちに嘘はないし、だからこそどうしたものかと恥を忍んで春明に相談を持ち掛けているのだ。


「だったらまあ、別にいいんじゃねえの?」

「いやだから…………」

「むしろそういう感情の一つもわかないようじゃ健全じゃねえと俺は思うぞ」


 九凪は自分がおかしいと感じているが、春明はそれが正常だと彼を見た。


「いや…………おかしいでしょ」

「それはものの見方の違いだな」


 肯定されてしまう方が困るという表情の九凪だが春明は続ける。


「確かにあの年齢の相手に手を出すのは不味いし、本来であればちょっとでも欲情するような感情を抱くのだってよろしくはない…………ぶっちゃけお前が思わず手を出してしまったと告白してきたなら友人関係考えるレベルではある」

「…………だよね」


 むしろ一考してくれるだけ春明には恩情があるほうだ。普通ならその時点で縁切りされたって文句は言えないほどに風聞は悪い。


「だがな、お前はあの子のことが好きで一生を添い遂げる覚悟も決めたんだろ?」

「うん」


 九凪は頷く。その覚悟だけは鈍ってはいない。


「だったらまあ、その相手に一切そういう感情を抱かないってのも異常ではあるだろ」

「…………そう、かな?」

「そうだよ」


 春明は断言する。


「突き詰めていけば人間の恋愛感情だって繁殖のための本能だぞ? 相手のこと好きだっていう感情の中には当然それが含まれているはずなんだ…………そういう感情が一切ないってのならそれは恋愛感情じゃなくて別の感情を勘違いしてるってことにならないか?」

「…………」


 詭弁のようにも聞こえるけれど真理をついているようにも思える。ただそれに安易に飛びついてしまうのは、駄目なはずの自分を正当化しようとしているようで九凪は躊躇う。


「だから俺はその感情はちゃんとあの子のことをお前が好きである証明だと思うぜ?」


 そんな九凪の心情を他所に春明はそう締めくくる。それは月夜のことを好きであるということの証明…………その言葉はどこか自分を安堵させるように九凪は感じた。それは相手が相手だけに自分の感情がどういうものなのかを九凪自身はっきりできない部分があったからだ。


 あの観覧車で九凪は月夜のことがどうしようもなく愛おしく思えて告白を決めた。しかしそれでも彼に根付いた常識や倫理観はその感情に対して彼を素直にはさせてくれなかった。だから自分の中に生まれた感情に戸惑ってしまったし、こうして安堵あんどを覚えているのだろう。


「だからってもちろん手を出すのはアウトだがな…………それに関してはそういう相手を選んだ自分が悪いってことで苦しんどけ」


 全面的に肯定するわけではなのが春明のいいところだ。そういうところははっきりと九凪の責任だと言ってくれた方が気は楽になる。


「精々苦しむよ」

「そうしろ」


 それで会話は区切りとなり、少し気が楽になった九凪はそのまま春明と学校へと向かった。


                ◇


「そう言えば気になってたんだけど高天のその手のお守りってなに?」


 一つの問題は気持ちの整理がついたが別の問題が片付いたわけではない。いつも三人での昼食中に不意に飛び出した奏の疑問に九凪の思考が一瞬止まる…………別に御守りに触れられることは目立つものだしいつか聞かれるだろうとは想定していた。しかしその相手が奏であることに彼は思わず戸惑ってしまった。


「あ、ああこれね…………」


 慌てて表情を取り繕って九凪は口を開く。彼は自分に対する奏の気持ちを知っているが彼女のほうは知られていることを知らない。本来であれば九凪は月夜という相手がいることを伝えて奏をすぐに振るのが正しいのだろう。


 しかし彼が彼女の気持ちを知ったのが春明の独断であることと月夜の見た目がここで問題になる。常識的で直情的な奏がそれを知れば人騒ぎ起こしてしまうことが容易に想像できてしまうからだ。


「これは月夜から貰ったんだよ。色々お世話になってお礼にって」

「へえ、お礼にお守りってのも古風ね…………あの子のイメージには合ってるけど」


 できる限り嘘は付かないように九凪は答えるが、特に疑うこともなく奏は納得する。彼と月夜がすでに付き合っているなどという想像は彼女の中には欠片もないのだろう。月夜が本気であることを奏は認識しているが、彼女の中の常識が結局は月夜を九凪の相手としては認めてはいないがゆえに。


「そういえば高天はさ、いつまであの子の相手をしてあげるつもりなの?」

「っ!?」


 不意の質問に九凪は思わず吹き出すところだった。


「あー、三滝。いきなり何を言い出すんだ」


 見かねてというか責任を取ってと言うか春明がフォローに口を開く。


「お人好しのこいつのことだ。あっちがいらんというまで面倒見るだろ」

「だから言ってるんじゃない」


 放っておけば際限のないのがわかっているから聞くべきなのだと、何も事情を知らない奏は春明へと答える。


「私たちはまだ二年生だけど来年には受験なんだし、それでなくたって何かの事情であの子の相手が出来なくなることだってあるわけでしょ? 今の内にそういうことを考えておかないとあの子だってかわいそうじゃない」

「相手ができなくなるって具体的にはなんだ? こいつは部活もやってないからそれこそ受験が本格的に迫るまで時間は余ってるだろ」

「それは…………ほら、恋人ができたりとか」


 少し言葉を濁して奏が答える。なるほどこれも彼女なりのアプローチの一つなのだなと春明は理解するが、すでに周回遅れの行動であることが痛々しくて彼の小さな良心が痛む。


「あー…………」


 適当に話題を変えるべきだろうと春明は思ったが、彼にしては珍しく頭が働かなかった。


「ええと、少し関係ない話になるけど僕は多分大学には行かないかな」

「えっ!?」

「そうなのか?」


 そこに今度は九凪が助け舟を挟むと二人が驚く。


「じゃあ、どうするんだ?」

「まだはっきり決めたわけじゃないんだけど…………専門学校に行こうかと」


 とりあえず話題はそれたが、それからしばらく月夜を交えない将来の説明に九凪は苦心した。

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