四十一話 朝食

 月夜と一緒に寝ることに少しも警戒しなかったわけではないが、九凪のそんな警戒もなんのその彼女は彼の横ですぐにすやすやと眠ってしまった。眠る彼女の表情は何の不安もなく安心しきっているようで安らかだ。そんな表情を前に警戒心を捨てきれなかったことを自嘲しつつ九凪も寝た。


 初めての場所で初めての同居に同衾どうきん…………しかし寝づらいこともなく九凪もあっさりと眠りにつくことができた。


「んん」


 それから何時間眠ったのか九凪は目を覚ました。昨日も色々なことがあったが不思議と疲れは残っていない。時間を確認しようとしていつもの位置に時計がないことに気づく。それで自分が実家ではなく新しいマンションにいることを彼は思い出した。とりあえずスマホで時間を確認しようとして周囲を探り…………月夜がいないことに気づいた。


「あれ?」


 てっきり月夜は彼が起きるまで一緒に寝ていると思っていたので意外だった。時間を確認してみれば普段彼が起きている時間なので起きるのが遅すぎたということもないだろう。


「…………とりあえずトイレに行こう」


 まだ頭がよく回っていない。とりあえず尿意を解消してから考えればいいかと立ち上がって九凪は部屋を出る。するとトイレに入るより前に廊下を漂っているいい匂いに気づいた。


「あ」


 台所から漂ってくるその匂いに九凪はもう一度ここが実家ではないことを思い出す。実家であればいつもの時間に起きれば母親が朝食を用意してくれていたが、ここには九凪と月夜の二人しかいない。

 いつも通り朝食を食べて学校へ行くことを考えると早めに起きて朝食の準備をしなくてはいけなかったのだ…………昨日はそんなことをまるで考えられなかった。


「おお、起きたか九凪」


 まさか、と思いつつ台所へ入るとガスコンロの前に月夜が立っていた。背丈が少し足りないので踏み台を使っている姿がいじらしくて可愛らしい。ふつふつと湯気を立てる鍋は匂いからすると味噌汁だろうか。


「もしかして朝ごはん作ってるの?」

「そうじゃ」


 一応尋ねると月夜が肯定する。


「九凪は学校へ行く準備とやらがあるのじゃろう? 朝餉あさげの用意をするのは恋人であるわしの役目じゃと真昼が言っておった…………あやつの助言に従うのは癪じゃが九凪のためであれば仕方ない」


 話しつつ月夜は鍋を掻きまわしてお玉で味を見て火を止める。何というか危なげのない慣れた動作に見えた…………そんな家事のできる印象はまるでなかったから意外な姿を見た気分だ。


「とりあえず顔を洗ってきたらどうじゃ?」

「うん、そうするよ」


 そういえばトイレにも行ってなかったと九凪は思い出して背を向ける。しかし一つ忘れていたと思い出して彼は振り返った。


「月夜、おはよう」

「うむ、おはようなのじゃ!」


                ◇


 九凪がトイレへ行って顔を洗い戻ってくる頃には朝食の準備はできていた。台所のテーブルにはご飯に味噌汁、塩鮭に卵焼きとほうれん草のおひたしが並んでいた。それは定番の朝食ではあるがだからこそ飽きずに食べられるものだし、だからと言って簡単に作れるものでもない。


「すごく美味しそうだね」

「くふふ、そうじゃろう」


 九凪の賞賛を嬉しそうに月夜が受け止める。もちろんお世辞ではなく彼にとって目の前の朝食はおいしそうだった。その見た目が必ずしも味に直結するわけではないが、少なくとも見た目が良くなければ味に期待はしづらい。卵焼きも塩鮭も綺麗な形だし焼き目もちょうどよく食欲をそそる。


「自分でもよく作るの?」

「いや、初めて作ったぞ?」

「え」


 思わず九凪の端を握る手が止まる。


「初めて?」

「うむ」


 頷く月夜に九凪はもう一度朝食を見やる。しかしそれは変わらず見事な出来だ。これをとても初見で作ったとは思えない。


「普段はどうしてるの?」

「食っておらぬ。そもそも神であるわしにとって食事は嗜好品のようなものじゃからな。解放されてすぐの頃は散々真昼が自慢してくれた食べ物などを用意させもしたが…………一度喰えばそれで満足してしまったからのう」


 そこまで口にしてあっと月夜は九凪を見る。


「もちろん九凪の作ったものは別じゃぞ? 九凪の作ったクッキーであれば毎日食べたとしてもわしは飽きぬからな!」

「あ、ありがとう」


 嘘偽りない純粋な気持ちを伝えられるとやはり照れる。今度はクッキーではなくもっと手のこもったものを作ってあげようかと九凪は思った。


「それより食べぬのか?」

「あ、うん」


 忘れていたととりあえず九凪は卵焼きに手を付けるが、箸でもって口元まで運んで少しためらってしまう…………これは月夜が初めて作ったものだ。見た目が整っていても味が、というのはある種の定番でもある。もしもその通りであったとしても笑顔を維持しなければならない。そんな決意を固めつつ九凪は口の中へと卵焼きを入れる。


「あ、美味しい」


 けれどそんな覚悟に反して素直な感想が漏れる。それはごく普通に美味しく、食べなれた味というか彼の好みに合った味付けだった。


「そうか!」


 そんな彼の反応に嬉しそうに月夜が顔をほころばせる。


「うん、お味噌汁もおいしい」


 卵焼きだけではなく味噌汁に塩鮭、ほうれん草のおひたしと箸を伸ばすがそのどれも美味しいとしか言いようのない味だった。初めてでこれだけ美味しいものを作れるなんて驚きというか…………正直月夜に生活感というか家事能力があると思っていなかったので本当に意外だった。


「これ、本当に初めて作ったの?」

「わしは九凪に嘘はいわぬぞ? 作り方やコツは九凪の母上に教わったがな」

「母さんに」


 言われれば味付けの好みが合っていることに納得する。


「でも母さんの味付けとも少し違うよね」

「そのままではなくわし独自の味付けも構築するようにと助言をいただいたのじゃ」

「あー、なるほど」


 九凪の母親は各々の個性を大切にするタイプだ。別に旧来の伝統などを否定するわけではないが、それは受け継いだうえでさらに自分の個性を足して発展させることを要求する。九凪もお菓子作りを最初は母親に教わったが、その際にも一通り作り方を覚えたらアレンジを考えるようにと指導された。


「どうじゃ?」

「うん、僕はこっちのほうが好きかな」


 母親の味付けよりも月夜のもののほうが九凪の好みに合っている気がする。


「ならばよい!」


 月夜は満面の笑みを浮かべ、しかしすぐに何かを思い出したような表情を浮かべる。


「そう言えば母上はせっかくだからわしが九凪に食べさせてやるようにと言っていたが、あーんするか?」

「登校時間もあるしそれは今度時間のある時にね」


 月夜の提案をさらりと受け流し、今度母親に文句を言っておこうと九凪は決めた。

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