三十八話 決定
真昼の提案は九凪にとってはまるで冗談のように聞こえた。何もしないで生活できるというのはある意味で誰もが憧れるものだ。もちろん学生である九凪は両親に養ってもらっている立場であり働く苦労をまだ知らない…………だが、だからこそ将来に対して不安を覚える。
しかしその不安を真昼は解消し気ままに暮らすことを保証すると言っているのだ。
「真昼さん、それは具体的にどういう内容になるのですか?」
戸惑う九凪を他所に海斗が尋ねる。
「予算は無制限…………でも構わないのですが多すぎても彼の性格からすれば恐縮してしまうでしょう。一般的な家庭の収入と同程度を支給する形で、車などの高額の買い物はその都度に相談という形でどうでしょうか?」
「なるほど」
納得したような表情を海斗は浮かべるが、それで九凪に何か言うでもなく口を閉じる。そこは父親として息子に何か意見を言ってほしかった。
「ああ、もちろん彼の御両親であるお二方の老後の保障もさせてもらいます」
「ありがたい話です」
付け加えるように口にした真昼に海斗は頭を下げた。
「どうですか?」
「…………どうですかと言われても」
いきなりすぎる。はっきり言って考える時間が足りない。
「別に良いではないか。真昼に貸しを作るのは
「ありがたい話ですが、すみません」
「なにゆえ!」
自身の意見を述べた瞬間に真逆の答えを出した九凪に月夜が驚愕する。真昼への借りを月夜が返すというならそれは九凪が月夜に養われているという形になる…………彼は月夜を自分の手で幸せにしてあげたいのだ。もちろん月夜の気持ちをないがしろにしたいわけではないが、一方的に受け取るようにはなりたくない。
「そうですか」
それを聞いた真昼の反応は残念そうでもなかった。それは善良な人間であればあるほど受け入れがたい類の提案であり、彼女の知る限り九凪という人間は善良だったのだから…………つまるところ彼の返答は予想の範囲内だった。
「あ、でもお店を出すっていう提案は少し惹かれました」
月夜と一緒にお店をやるというのは悪くない未来に感じられた。九凪にとってお菓子作りが誇れる趣味でなかったのは、作るのが楽しいというよりお菓子を得るための手段だったからだ。だから九凪としてはあまり誇れる趣味ではなく、成長するにつれ熱心ではなくなった。
だけどそれで月夜とお店をやれるというのなら、誇れるような気がするのだ。
「実現できるかどうかはこれから考えなくちゃいけませんけど、もしその時にはお金を貸してもらえるとありがたいです」
「貸して欲しい、ですか。お店をやるにしても私の方で全額出して問題はないんですよ?」
「いえ、それだと流石に甘えすぎですから」
それでは生活費をすべて出してもらう生活と変わらないように九凪には思える。それならばもちろん貸してもらうのだって甘えではあるが、自身で一から貯めるとなると月夜との時間がどうしても犠牲になってしまうだろう。だからその点だけは甘えさせてもらうしかない。
「その気概はいいが、店を出しても上手くいくとは限らんぞ?」
「…………頑張るよ」
海斗が現実的な指摘をするが今の九凪にはそう答えるかしない。これまで彼は将来を見据えて本気でお菓子作りをしてきたわけじゃない。そんな人間が簡単に成功するわけはなく、全てはこれからの努力次第だ。
「ふふふ、大丈夫ですよお父さん。売れ残りがどれだけ出てもすべて私が買い上げますから」
「え、いや、それは…………駄目ですよ」
そんなことを言いだす真昼を九凪は戸惑ってみる。確かにそれであれば毎日完売御礼で普通の客が全く来なくとも生活は成り立つ…………けれどそれではただお金をもらって生活するのと変わりないではないか。
「なぜですか? これに関してはむしろ私が欲しいから買うんです…………仮に売れ残りが出ないような状況になるのではあれば取り置きを頼みたいところですよ?」
「え、なんでそんな話に…………」
「それはもちろん私があなたのお菓子のファンだからです」
まっ直ぐに九凪を見て真昼が言う。彼女にはたった一度だけクッキーを渡しただけのはずなのだが、沈着冷静な雰囲気の彼女にしては珍しくその声と表情には熱がこもっているように見えた。
「あ、ありがとうございます…………」
そこまで正面から褒められたことが少なくて九凪は思わず顔を赤らめる。趣味として公言してなかったこともあって九凪がお菓子を振舞った相手は少ない。基本的に身内だけなのでその補正が入った感想だろうと彼は受けとめていて、だからこそ真昼からの高評価が思いのほか心に響く。
「わ、わしも大好きじゃぞ!」
「あ、うん、ありがとう」
慌てたように主張する月夜に九凪ははっとしてお礼を言う。
「九凪、浮気はするなよ」
「しないよ!?」
そんな彼の様子に口を挟む父親に九凪は何を言うんだと叫んで返す。
「関係ない話ですが神々の間では一夫多妻も珍しくありませんでした」
「真昼さん!?」
「冗談ですよ」
そう言ってにっこりと真昼は微笑む。質の悪い冗談すぎると九凪は隣の月夜を見ると、さっきまでの笑顔はどこへやら好戦的な表情で彼女は真昼を見ていた。
「やはりあの女信用できぬな」
「いや月夜、冗談。冗談って言ってたからね」
「むう」
慌ててフォローするが月夜は不満顔だ。そのやりとりすらも楽しそうに真昼は見ているのだから役者が違うというか掌の上に思える。
「とりあえずお話はこんなところでいいかしら」
不意にぱんっ、と手を叩いて晴香が言う。
「ええそうですね。今必要な話はすべて終えたと思います」
真昼がそう答えると晴香は海斗へと顔を向ける。
「お父さん」
「私としても今のところ他に話すことはない」
「それじゃあお話はこれでおしまいで…………三人とも夕飯は食べて行くわよね?」
「ご迷惑でなければお言葉に甘えます」
今日の予定は真昼に任せてあるので彼女が承諾するなら九凪に反対する理由はなかった。
「それじゃああんたは夕飯ができるまでに荷物をまとめちゃいなさい」
「………わかった」
頷いて九凪は立ち上がる。
「わしも手伝うぞ!」
「あー、うん」
できれば一人で色々と休み…………考えながらやりたかったが断ることもできない。
月夜を連れて九凪はリビングを後に自室へと向かった。
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