8話 命の時間と目に映る差異(6/6)

ライゴは洋平との会話を思い出していた。

「ねーねー、ヨーへーが時々言ってるハナってどんなのなの?」

「花なぁ……。俺の世界だと、おひさまみたいなのがいっぱい生えてるんだよ」

「いっぱい!? それじゃあすごく明るいんだねぇ」

「いや、花は光らないんだけどな、代わりに色んな色と形があって、風に揺れるといい匂いがしたり、タネを飛ばしたりしてさ」

「誰かがハナをパタパタしてるの?」

「あはは、そうだよな。想像できないかも知れないけど、俺のいたとこでは、風は自然に吹いてるんだよ」


ライゴは洋平の務める園の、園庭に面したデッキの屋根の上にいた。

この世界では、ライゴは人型ではなく元のふかふかの姿で、鈴虫ほどの大きさになっている。

ライゴの眼下、デッキの前に並べられた横長の植木鉢には、たくさんの花が、どこからともなく吹いてくる風にゆらゆらと揺れていた。

「ヨーへーの言ってたハナって、これのことだ……」


ライゴは、お昼寝の時間に突然姿を揺らした洋平にしがみついたまま、ぐるぐると目の回るような感覚に襲われて、気づけば見知らぬところに立っていた。

立っているところは硬くて石のようだけど、すごく平らだ。

どこかの建物の一部だろうか。


突然大きな音がして、ライゴは思わず飛び上がった。

音はライゴが立っていたところから少し離れた大きな四角い箱から鳴っている。


ライゴは耳を押さえながら、その箱から少しでも距離を取ろうとした。

こんなに煩いところにいたら、耳も頭も痛くなってしまいそうだ。

これがシェルカなら、すぐに泣き出していただろうな。なんて思ってから、ライゴは思い出した。


あの時、ヨーへーにしがみついたままの僕の尻尾を、妹の小さな手が、確かに握り締めていた事を。


「……まさか、シェルカも一緒にヨーへーの世界に来ちゃった……なんて事、ないよね……?」

ライゴは慌てて辺りを見回す。


移動したのはヨーへーで、僕はヨーへーにぎゅっとくっついてたから巻き込まれただけで、僕の尻尾を握ってただけのシェルカまで一緒に来るなんて、そんなことはきっとない。

そんなこと、あってほしくない。

祈るような気持ちで、それでも必死に耳を澄ましていると、不意に大きな音が止んだ。

静かになった園庭で、どこからともなく吹く風が、ライゴの耳に小さな小さな声を届けた。


「あっちだ!」

ライゴは駆け出していた。

微かだけど、これは確かに僕の妹の声だ。

「ふぇぇぇん……お兄ちゃぁぁぁん……、ヨーへー……ううぅ、どこなのぉ……」

近付くにつれて、その声ははっきりと、自分を呼んでいるのだと分かった。

「シェルカ!!」

「お兄ちゃん!?」

やっと見つけたシェルカは、ライゴのいる二階ではなく、一階の花壇の隅で泣いていた。

「怪我はない?」

「う、うん。うんっっ、お兄ちゃぁぁぁん……っ」

シェルカはよっぽど不安だったのか、涙でびしょびしょの顔で、懸命に頷く。

すぐにそばに行って、慰めてやりたい。でも……。

(どうしよう……)

ほんの一階分とはいえ、園は天井も高く、花壇の段差を入れても二メートルは離れている。それに加えて今のライゴとシェルカは鈴虫ほどのサイズしかなかった。

ライゴから見れば、飛行特訓の時に行った滝の高さと同じか、それ以上に見えた。

躊躇うライゴに、シェルカがしゃくりあげながら言う。

「シェ、シェルカが、お兄ちゃんのとこ、行くね」

来れるんだろうか。

シェルカは、この高さまで飛べるというんだろうか。

悔しい気持ちと、自分が飛び降りずに済んだ事にホッとする気持ちが混ざって、ライゴは何も言えないまま頷く。


「えいっ……」

しかし、シェルカはライゴの場所まで飛び上がれずに、バランスを崩してヘロヘロと落下する。

「シェルカ! 大丈夫!?」

「だ、大丈夫だよ。今度こそ行くね。……うー……。えいっ!」

けれど、何度挑戦しても、シェルカは途中で落下してしまう。

「ぅ、うう……なんで、かなぁ……。シェルカ、お兄ちゃんのとこ、行きたいのにぃ……」

半べそのシェルカは今にも大泣きしてしまいそうだ。

紫色の瞳を涙でいっぱいにして、シェルカはもう一度羽ばたいた。

ばさり、ばさりと羽ばたく度に上昇する体が、風に吹かれた途端ぐらりと傾ぐ。

そうか。風があるからだ。

シェルカはこんな風に横から風が吹くような場所で飛んだ事がないから。

……それだけじゃない。

飛べない僕に遠慮して、本当は飛びたいくせに、ずっと飛ばないでいたから。

シェルカが練習する機会を、僕が潰しちゃってたから……。

ライゴの視界がじわりと滲む。


きっとシェルカの見てる景色も、今はこんな風に見えてるんだろう。


「シェルカ、そこで待ってて! 僕がそこまで回ってくるから!」

飛べないなら、せめて走ろう。

僕が妹のところまで行こう。

見る限り、園児達はライゴのいる階にもシェルカのいる階にもいる。

この建物のどこかに下に降りられる場所があるはずだ。


そう決意して駆け出したライゴの耳に、園児の弾んだ声が入った。

「見てーっ、なんかピンクの虫がいるー」

「どこどこー?」

「あー、ふわふわだー」

「毛が生えてんのって毛虫だろ」

「ピンクの毛虫とか、毒ありそー」

「えーっ」

「毛虫の形じゃないよー」

「どこだよ、見せてみろよ」

「あっ逃げちゃう!」

慌てて戻ったライゴが屋根の端から見下ろした時には、シェルカのいる花壇はぐるりと園児達に囲まれていた。


(シェルカ!)


ライゴは叫びたいのをグッと堪えた。

シェルカはどうやら花壇の花の影に隠れたらしい。

僕が不用意に呼びかけてしまったら、シェルカも顔を出したくなるだろう。

とにかく、一刻も早くシェルカのところまで行かないと!


ライゴは窓際まで戻ると、外に出してあったじょうろと飼育ケースをよじのぼり、下手なりになんとか飛び上がって、開け放たれていた窓から室内に入る。

廊下をうろうろする園児達に見つからないよう気をつけながら、下に降りるルートを探して走った。


なんとか途中でヨーへーに会えないかな。

ヨーへーがいてくれないと、僕一人じゃシェルカを助けられないよ……。


ライゴには、ここがヨーへーの勤務する園だということはわかっていた。

だって、いつも人型のライゴが着ていた服と同じ服を着た子達がたくさんいるから。

ヨーへーがその服は俺が勤めてる園の制服なんだ。と話していた事をライゴはずっと覚えていた。

ヨーへーと同じ、僕と同じ二つ目の子ばかりが通う園。

それはライゴにとって、一度は見てみたいと願う、憧れの光景だった。


でも、今はそれどころじゃない。

子どもは、たとえ悪意がなくても小さな虫を殺してしまう事があるというのを、ライゴは自分の経験からよくわかっていた。


自分でも、もう少し幼い頃にヨーへーをもらっていたら、力加減を誤って握りつぶしてしまったかも知れない。

そう思ってから、脳裏をふわふわのピンク色が掠める。

妹が潰されてしまうのなんて、絶対に嫌だ。


やっとのことで階段を見つけて、ライゴは精一杯羽をバタつかせながら転がり落ちるようにして段差を飛び降りてゆく。


ヨーへーには会えなかったけど、もう少し行けばさっきの場所の下に出るはずだ。


どうか間に合って……と祈りながらライゴが飛び出した玄関のすぐ近くの花壇では、まだ園児が人だかりを作っていた。

「おい、出てこないぞ」

「そっちから追い込めって」

「お花踏んだらダメだってば」

「先生に言うからねっ」

「うっせーな」

「あ、ふわふわ」

「なんだよコッコの羽じゃん」


どうやらシェルカはまだ捕まっていないようだけど、ピンクのふわふわを探す子どもたちの前にブルーグレーの自分が出ていったところで、子どもたちはシェルカを諦めてくれるだろうか……。


考えながらも花壇の側まで慎重に近づくライゴの目に、シェルカの色によく似たパステルピンクの可憐な花が映った。

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