9話 小さな体と大きな勇気(1/6)

シェルカは花の茎にしがみついて、息を殺して震えていた。

怖くてたまらなかった。

不意に花壇に差し込まれる木の枝は、羽や尻尾の端を掠めた。


お兄ちゃん、ヨーへー、お父さん、助けて!!


いつもシェルカを助けに来てくれる頼もしい人達は、誰一人、シェルカのそばにいなかった。


お兄ちゃんが来てくれる。シェルカを助けに、来てくれる……。

そう心の中で唱えていないと、今にも腕から力が抜けてしまいそうだ。


でも、もし本当にここにお兄ちゃんが来たら、今度はお兄ちゃんが追い回されてしまうんじゃないだろうか。

お兄ちゃんが園児達に捕まってしまったら……。

そう思うだけで、シェルカの羽は縮み上がった。


お兄ちゃん、来ちゃダメだよ。隠れてて。

お兄ちゃんお願い、シェルカを助けに来て。

二つの気持ちはどちらも本当で、シェルカの心を二つに引き裂く。


「……お兄ちゃん……」

涙と共に溢れてしまった声に、シェルカは自分が限界をむかえたのだと知った。

しがみついていた腕から力が抜けて、ぽふん。と羽から地面に着地する。

もうダメだ。もうこれ以上は頑張れない。

次に木の枝が差し込まれたら、きっと自分は外に押し出されてしまうだろう。


痛いのは、嫌だなぁ……。


そんな気持ちと、お父さんやヨーへーやお兄ちゃんが知ったら悲しむだろうなぁ。という申し訳ない気持ちが胸に広がる。


お兄ちゃんと、なんだかギクシャクしたままお別れになっちゃうのかなぁ。

シェルカは、お兄ちゃんのこと大好きなのに。

ずっとずっと、大好きなのに……。

堪えていた涙がどうしようもなく溢れてきて、視界がぼやける。

「お兄ちゃん……」


シェルカの最後の言葉は、独り言のはずだった。

しかし、返事はすぐそばから、バサバサと風を切る羽の音と共に返ってきた。

「シェルカ! お待たせ! そのまま隠れててねっ」


「お兄ちゃん!?」

「しー、だよ」

シェルカの兄は、ヨーへーがよく使う『静かにしててね』のサインをしてみせると明るく笑った。


嬉しい!! お兄ちゃんが来てくれた!! 弾けそうなほどの喜びと、お兄ちゃんまで捕まっちゃったら……という不安が同時に押し寄せて、シェルカはぎゅっと息を呑む。


お兄ちゃんはピンク色の花の切れ端みたいなのをいっぱいつけて、走るたびにピンク色がヒラヒラしている。

よく見れば、ブルーグレーのはずの毛の色までもがほんのりピンク色になっていた。


園児達の目の前に飛び出してきたピンク色に、わあっと歓声が上がる。

そこに「咲ちゃん、ママが来たよー」と聞こえたのは、

いつもよりもずっと大きなヨーへーの声だった。


「ヨーへーっ!!」

シェルカは叫んだ。力いっぱい。


小さい時のヨーへーの声が、私達になかなか届かないのを知っていたから。


「ヨーへーっ!!!!」

お兄ちゃんも叫んでいた。


だけど、ヨーヘーは全く気付かない。


そういえば、ヨーへーは私達よりもずっと耳が聞こえない種族だから、もっともっと大きい声じゃないとダメなんだ。


「せんせーっ、見て見て、そこにふわふわの虫がいるよ」

「ピンクの、かわいいのーっ」

「どーせ毛虫だって」

「違うよ、新種だよっ」


皆に言われて、ヨーへーはこっちを向く。

お願い、気付いて!!


私はお兄ちゃんと一緒に、精一杯叫んだ。

「「ヨーへーっ!!」」


「そうか、すごいな。それじゃ明日探してみような」

「やだ、今探す!」

「ほら、彗くんももうママさん待ってるぞー」

「え〜〜〜、まだ帰らない〜〜」

「未来ちゃん、今日はピアノの日なんじゃないのかな?」

「あ、そうだった。もう行かなきゃ……。虫さん、また明日ねー」

ヨーへーは、こちらをチラリと見ただけで、園児達の背を押して玄関の方に戻ってしまった。


「……そんな……」

お兄ちゃんの声が震えてる。


私も、同じ気持ちだった。


だって、ヨーへーなのに。

私の、私たちの、大好きなヨーへーなのに。

私たちのヨーへーは、私たちに全然気づかなくて。

みんなの先生をしてた。


私とお兄ちゃんは何度もヨーへーの背中に呼びかけたけど、ヨーへーは全く振り向かないで、そのまま建物の中に入ってしまった。


園児達が帰ってしまうと、玄関は静まり返った。


「そんなのって、ないよ……」

お兄ちゃんはそう言って、ポロポロ泣いていた。


やっとヨーへーに会えたと思ったのに。

ヨーヘーが自分達に気付かなかったことが。

私たちにはあまりに辛くて、悲しくてたまらなかった。


「お兄ちゃん……」

私は、お兄ちゃんを慰めたくて、ピンク色に染まった体をぎゅっと抱きしめた。

ピンク色のお兄ちゃんからはなんだかいつもと違う匂いがした。

ねえ、私の代わりになろうとして、ピンク色になってくれたの?

こんなにこんなに、怖かったのに。

こんなに怖いところに、私のこと助けに来てくれたの?


「シェルカ……、無事でよかった」

お兄ちゃんの優しい声が、まだ涙声のまま、耳元で囁く。

「お兄ちゃん、助けに来てくれてありがとう」

「うん……」

お兄ちゃんの返事はまだ元気がない。

今までだったら『当然だよ、僕はシェルカのお兄ちゃんだもん』って言ってくれるのに。

飛べなくたって、お兄ちゃんはちゃんとシェルカを助けに来てくれたのに。

勇気があって、優しくて、世界で一番大好きな、シェルカのお兄ちゃんなのに。

「お兄ちゃん、大好きだよ」

私は精一杯の感謝と願いを込めて、お兄ちゃんをもう一度ぎゅっと抱きしめた。



***


どれくらいの時間が経ったんだろう。

僕が目を開いたら、空は真っ暗だった。


慌てて飛び起きると、僕にくっついていたふわふわが「んー……。お兄ちゃん……?」と眠そうな掠れ声で言った。


ああ、そうだった。

僕たちはヨーヘーにくっついて、ヨーへーの世界に来てしまったんだ。


シェルカの声が掠れているのは、ヨーへーに気づいてもらおうと全力で叫んだからだ。

でも、気づいてもらえなかった。

僕たちはいっぱい走って、いっぱい泣いて、ヘトヘトで、お昼寝もしていなかったから、ここで力尽きて眠ってしまってたんだね……。


立ち上がって辺りを見回す。

園児達の姿は見えないけど、建物の中から時々子どもの声は聞こえている。

まだ子どもがいるってことは、先生もまだいるはずだよね。

ヨーへーが帰ってしまう前に、なんとかして僕たちに気づいてもらわなきゃ。


「お兄ちゃん、どこか行くの?」

不安そうな妹に、僕はにっこり笑って答える。

「シェルカはまだ寝てていいよ、疲れてるでしょ?」

「お兄ちゃんは……?」

「僕はヨーへーを探しに行くよ」

「そ、それならシェルカも行くっ」

「見つかるまでいっぱい歩くことになるかもしれないから。シェルカはここで待ってて。ヨーへーと一緒に迎えに来るから」

だって、中にはまだ園児がいるのに。

もし見つかってしまったら、シェルカはまた怖い思いをすることになってしまうよ……。

「でも……」と言いかけたシェルカがハッと玄関の方を振り向いた。


「外は寒くないかー?」

「寒くない」

「仕方ないな。寒くなったら、先生の上着を貸してあげよう」

「寒くない」

「滝斗くんは強いなー。先生は、もうすでにちょっと寒いんだが……」

帰り支度を済ませた男の子と一緒に玄関にやってきたのは、ヨーへーだった。

くだらない話をしている、あの明るくて優しい声。

さっきもその前もダメだったのに、それでも僕は、あの声を聞くとホッとしてしまう。

ヨーへーに、今すぐ名前を呼んで、撫でてもらいたくてしょうがなくなる。


近くまで行けば、気づいてもらえるかな。

でも今は近くに子どももいるから、あんまり近付くのは危ないかも知れない。


「ヨーヘーっ!!」

隣からシェルカがヨーヘーの名前を叫ぶ。

つられるようにして、僕もまた僕の大事な人の名前を必死に呼んだ。

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