6話 俺は『お母さん』ではない(1/6)
ああ……あったかい、な……。
体に触れる全てがふかふかしていて、じんわり温かくて、まるで大きなゆりかごのようにゆっくり揺れている。
どこか懐かしい、太陽をいっぱい浴びた布団のような匂いに包まれて、俺は目を開いた。
視界を埋め尽くすのは、白。
まるで新雪のような清廉な白が、けれど雪とは違って温かく柔らかに一面ふわふわと揺れている。
どうやら動物の毛のようだが、ゆったりと上下しているのは呼吸に合わせてだろうか。
それにしたって、大の大人が寝転んでも余りあるほどの、こんな大きな動物ってなんだ……?
目覚めたというのに、俺の頭はどこかぼんやりしたままだった。
目もまるで泣き腫らしたかのように痛むし、瞼が重い。
俺……、どうしたんだっけ……。
記憶を辿ろうとして、俺は反射的に思考停止する。
やめた方がいい。嫌な事を思い出すのは。
泣き寝入る前の記憶なんて、ろくなもんじゃないに決まってる。
……叶うなら、もう少しだけ……、温かいこの場所で微睡んでいたい……。
そう願いながら背を丸めれば、大きな毛皮がほんの少し動いた。
「ヨウヘイ? 気が付いたかい?」
優しく名を呼ばれて、俺は閉じかけた瞼をもう一度開く。
「どこも痛むところは無いだろうか?」
俺を包み込むような愛情に満ちた声が、気遣うように降り注ぐ。
大人の、男性の声だ。でも父さんじゃない。
誰だっけ……。
俺をこんな風に心配してくれる人……。
ぼやけたままの頭で顔を上げれば、そこには琥珀色の大きな瞳が八つ、俺を見つめていた。
「……ザルイルさん……?」
ザルイルさんが瞳を全部開いてるの、珍しいな……。
ぼんやりとそんなことを思いながら、俺はようやく体を起こして辺りを見回した。
俺の両脇にはライゴとシェルカが、俺と同じようにザルイルの上で眠っていた。
ザルイルの胸から腹にかけては、背中側の紫色の毛よりも細くてふわふわした白い毛に覆われている。
それは知っていたが、それがまさかこんなにも柔らかかったなんて……、知らなかったな。
「二人とも、君を随分心配していたよ」
言われて二人を見れば、確かにどこか不安げな寝顔をしている。
そうか、俺、戸棚に閉じ込められて……。
思い出してしまった光景に、ぞくりと背筋が震える。
「……っ」
震え出してしまいそうな身体を両腕で押さえると、俺の頭を大きな手……いや、指が、大きな爪を器用に持ち上げて指の腹でそっと撫でた。
「思い出さなくていい。怖い思いをさせてしまって、すまなかった……」
見上げたザルイルは、長い耳をしょんぼりと伏せて申し訳なさそうに俺を見つめている。
大人に頭を撫でられるなんていつぶりだろう。ふかふかの毛で撫でられた頭が、なんだかぽかぽかと温かくなったような気がする。
「いえ、俺のミスなんで……。ザルイルさんは何も悪くないですよ」
言いながら、ようやく戻ってきた現実感に打ちのめされる。
……そうだ。俺のミスで、子ども達に待ちぼうけをさせてしまったんだ……。
辺りを見回せば、食卓には仕上げを残したままの冷え切った料理が。
部屋はどこもかしこもカラフルに飾り付けられていて、それなのに、パーティーは行われなかった。
全部、俺のせいで……。
「ごめんなさい……、せっかくライゴ達が頑張って準備したパーティーだったのに、俺が台無しにしてしまった……」
俯く俺の背を、ザルイルの指がふわりと撫でる。
「ヨウヘイ、顔を上げてほしい。台無しなんて事はないよ、パーティーは明日やり直せばいい」
「……っ、……すみません……」
そうだよな。ザルイルさんがこんな事で怒るような人じゃないことくらい、分かってはいた。
それでも「そうですね」なんて返事は、俺にはできなかった。
俯いたまま顔を上げきれずにいると、フシュゥゥゥと生温かい風が俺の髪を揺らす。ザルイルさんの大きな嘴状の口元から漏れた長いため息が、俺ごと胸元の白い毛の波を揺らしていた。
「ではこうしよう。私の誕生日祝いは日を改めて、ヨウヘイの歓迎会も兼ねて華々しく行う」
「…………え……? 俺……の……?」
俺の、何だって?
カンゲイカイ……?
「ああ、君の歓迎会だ。来るなり毎日休みもなしに働かせてしまって、本当に悪いと思っている。……私はヨウヘイを頼るばかりで、まだ何一つ君に返せていない」
「そんなこと……」
予想外の言葉に、なんて返事をしたらいいのか分からない。
二対閉じられたザルイルの琥珀色の瞳が四つ、俺をじっと見つめている。
俺は、右も左もわからないこんな世界でザルイルに拾われて。ここで衣食住を世話になって、少しでもその恩返しができればと思っているだけなのに。
子ども達と触れ合う日々に、先の見えない不安を随分と和らげてもらっているのに。
助けてもらっているのは、いつも俺の方で。
シェルカの怪我の時だって、パチの時だって、今回だって、俺はいつもザルイルに迷惑ばかりかけているのに……。
俺を見つめる四つの大きな瞳が、ゆっくり細められる。
「私は、ヨウヘイに会えて良かったと思っている。
君がもし突然いなくなってしまったとしても、私はずっと変わらずそう思い続けるよ」
何か大事な物を俺に手渡すように、ザルイルはそう告げた。
「ザルイルさん……」
ふ。とザルイルが遠くを見るようにして視線を上げる。
つられて見上げた空は、どこまでも続く暗闇だ。
この世界には月もなければ、瞬く星すらもない。
「あの頃私は、朝仕事に行くのが本当に辛くてね……。
見送ってくれる子ども達が、今にも泣き出しそうな顔で『早く帰って来て』と言うんだ。
『行かないで』と泣いてくれる方が、まだ良かったよ」
……そうだろうか。
ザルイルなら、行かないでと言われてしまったら、本当に仕事に行くのをやめてしまいそうな気がするが。
俺の考えに気付いたのか、ザルイルは小さく笑って答えた。
「ああ、その時には、私は今の仕事を辞めようと思っていたんだ」
その言葉に俺は目を見開く。
ザルイルが何の仕事をしているのか前に尋ねたことはあったが『なんと言えばいいだろうか……説明が難しいな……』と酷く弱られてしまったので、遠慮してしまった。
だから何をしているのかは今も分からないままだったが、それでも、ザルイルがその仕事を気に入っていて、誇りに思っている事だけは伝わっていた。
それなのに、そんな仕事を辞めようとまで思い詰めていたとは……。
「でも今は、あの頃と同じ言葉を心穏やかに聞くことができる。子ども達も、笑って私を見送ってくれる」
驚いたままの俺に、ザルイルは続ける。
「安心して仕事に向かえる。それが、私にとってどんなに有難い事か分かるかい?」
問われて、胸が詰まる。
だってそれは、俺達保育士の仕事そのものだ。
まるで、俺だけじゃなく全ての保育士に感謝を捧げられているようで、俺はたまらない気持ちになる。
「この世界に来てくれて、私や子ども達に出会ってくれて、私達と共に居てくれて本当にありがとう」
「――……っ」
カッと顔が熱くなって涙が滲む。落涙を堪えきれずに俺は腕で顔を覆った。
けれど決壊してしまった涙腺は、次から次へと雫を生んで止まりそうにない。
真っ赤な顔をザルイルに見られたくなくて、じわりと背を向けながら腕で顔をごしごし擦れば、ザルイルが困ったような声で言う。
「乱暴にするのはやめなさい。目が腫れてしまうよ」
優しく窘められて、恥ずかしいような嬉しいような、よく分からない気分になる。
「私には、ヨウヘイのこぼす雫は小さすぎて見えないよ」
そう言われて、確かにそうかも知れない、と思った。
俺の目は既に真っ赤に腫れていたけれど、ザルイルにはそこまで見えていないようだ。
……もしかしたら、そのためにザルイルは俺に要素を分けないまま話してくれていたのかも知れない。
そう思うと、なんだか自分の涙なんて、本当にちっぽけなものに思えてきた。
俺は、自分の十倍以上あるザルイルを見上げる。
いつ見ても、やっぱり大きいな。
いや本当に。ちょっと大き過ぎるだろ。
五階……いや、六階建てのビルくらいはあるよな。
あまりに非現実的なその大きさに、なんだか笑いが込み上げてくる。
何がどうして、俺はこんなでっかいもふもふに保育の礼を言われて、感動して泣いてるんだか。
まるでおかしなこの状況に、俺が思わず苦笑を零せば、ザルイルが優しく声をかける。
「……落ち着いたかい?」
俺は、頬を伝う涙をそのままに「はい」と笑って答える。
大きなザルイルに届くよう少し大きな声を出せば、澱んでいた胸まで少しスッキリしたような気がした。
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