第21話 恐怖01

 レインが寝なければリリーも寝ず、レインが食べなければリリーも食べない。そんな日が3日3晩続いた。リリーは休息をいっさい取らずにレインの治療に没頭した。


 4日目の朝。ウルド砂漠の強い陽射ひざしが貴賓室の窓辺に降りそそぐころ、レインの身体からは膿の芯が綺麗に取り除かれていた。菱形に赤く膨らんでいた皮膚も腫れが引いている。レインの身体は薄いカサブタで覆われ、カサブタの一部が剥がれ落ちると、きめ細やかな白い肌が現れた。


 不思議なことに、腫れで塞がっていた毛穴が開くと今度は毛髪が急速に伸び始めた。頭皮が見えていた頭も今は柔らかな黒い髪に覆われている。薄くなった眉毛も綺麗に生えそろっていた。


 今、レインはベッドの上で眠っている。痒みと疼きが消え去ったのだろう。最後の膿の芯が抜かれると同時に深い眠りについていた。香炉の中に置かれた石炭も燃え尽きて真っ白な灰になっている。貴賓室にたちこめるえた臭いはリリーとレインがともに戦ったあかしであり、戦火ののこだった。


 リリーは手押し車を片づけると窓を開けた。朝方あさがたのひんやりとした風が吹きこむとレースのカーテンが揺れる。リリーは風に揺れる銀髪を耳へかけながらベッドへ近づき、横たわるレインの寝顔を見下ろした。



──目元はサリーシャ、鼻筋はロイドに似ている……。



 そんな感想を抱いていると朝陽あさひを浴びたレインがうっすらと目を開ける。レインは強い陽射ひざしに目を細めながら柔らかく微笑んだ。



「朝陽とは心地よいものなのですね……」



 いつもならを浴びることなど叶わない。レインは感動を覚えながら上半身を起こした。身体からは痒みや疼きがすべて消え去っている。3日3晩の苦しみがまるで嘘のようだった。



「リリー……」



 レインは嬉しそうに微笑んでいたが、リリーと視線が会うと悲しげに眉をよせた。リリーの目の下には隈ができ、頬も少しやつれている。疲労困憊ひろうこんぱいしている様子がありありとわかった。



「リリーも少しは休んで……」



 疲れ果てたリリーを見ていると素直に喜べない。しかし、レインが語りかけるとリリーは口元に笑みを浮かべた。



「わたしを心配してくれているのですね。とても嬉しいですが、それよりも……」



 リリーはレインの手を取ってベッドから立ち上がらせる。そして、サイドテーブルに置かれた白い絹の下穿したばきとシャツを持った。



「レインの身体にはまだ死んだ皮膚が残っています。お湯を浴びて洗い流してください。あの……これは、着替えです」



 レインへ着替えを渡すリリーは視線のやり場に困っている。レインは自分が裸であることにあらためて気がついた。



「も、申し訳ございません!!」



 レインは顔を真っ赤にして慌てた。リリーには身体の隅々まで見られているはずのに、今はとても恥ずかしく思える。滑稽なほどに慌てふためきながら浴室へと向かった。



×  ×  ×



 城館には貴賓室のある5階に浴室ももうけられている。白石しろいしで造られた浴室はとても広く、レインが壁面にある円形の水栓すいせんをひねると上部の吐水口とすいこうから勢いよく温水が噴き出した。レインは降りそそぐ温水や立ちこめる水蒸気を見て戸惑った。


 皮膚病に悩まされていたときは『お湯を浴びる』なんて想像もできないことだった。温水を浴びればすぐに身体が赤く腫れ、痒みに襲われてしまう。レインは薬湯に浸したタオルで身体を拭くことしかできなかった。



──また、同じことになったら……。



 皮膚が癒えたといっても、記憶まで癒えたわけではない。レインは銀色の吐水口とすいこうから流れ出る温水や、波打つ浴槽を見て恐れた。躊躇ためらっていると浴室の扉が開く音がする。ドキリとして振り向くと、そこには一糸いっしまとわないリリーが立っていた。



「わたしも3日間、湯浴ゆあみをしていません。一緒に入りましょう」

「し、しかし……」

「レインはまだお湯を浴びていないのですか? 砂漠の狼は世話がやけますね」



 リリーは左手で胸元を隠しながらレインの前までやってくる。肌は白石よりも白く、しなやかな肢体は蒸気を纏って妖しく輝いていた。レインは高鳴る鼓動を鎮めるように視線を落とした。そして、少し悔しそうに口を開く。



「情けないことに、恐怖を感じています」 

「……恐怖?」

「はい」



 リリーが首を傾げるとレインは振り返って吐水口とすいこうを見上げた。吐水口からは温水が降りそそいでいる。レインはシャワーを見つめながら軽く下唇を噛んだ。



「皮膚は世界と自分を隔てる境界線です。皮膚病をわずらう間はずっと『僕は世界に拒絶されているんだ』と感じていました。身体のすべてが包帯と鉄仮面に覆われて……のあたたかさを知らず、肌を流れる水の感触も知らない。人が当たり前にできることが僕にはできませんでした。だから、なおさら怖いのです。人は『なんて臆病者だ』と言って僕を笑うでしょう……」

「そんなことはありません」



 レインが本音を口にするとリリーはレインの背中へぴたりと身体をくっつける。柔らかな胸の感触を背中に感じるとレインの鼓動はかつてないほど早くなり、頭と身体の奥が熱くなった。



「リリー、何を……?」

「……」



 レインが問いかけてもリリーは答えない。かわりに後ろからレインの右肘をそっと握り、右腕を降りそそぐシャワーのなかへ導いた。やがて、二人の身体を温水が伝う。腕、身体……初めて浴びる温水は驚くほど心地よく、乾いたカサブタをふやかし、流れ落としてゆく。



「はは……あはは」



 レインは身体を伝って跳ねる水飛沫みずしぶきを見ながら思わず笑い声を上げた。喜ぶ姿を見てリリーも笑顔になる。しかし、レインの声はすぐに震え始めた。リリーがいぶかしんでいるとレインはゆっくりと振り向いた。



「本当に……本当に僕は何も知らなかったのですね」

「……」



 リリーは戸惑った。レインの目じりを流れているのは温水だけではない。レインは泣いていた。レインの潤んだ黒い瞳は限りない感動と感謝を伝えていた。



「あなたは僕を治してくれた……」



 レインは濡れそぼつリリーの銀髪を優しくなでると、小さな肩をそっと抱きよせる。リリーは青い瞳を丸くしてレインを見上げた。



「きゅ、急にどうしたというのですか……」



 レインの両腕は思ったよりも筋肉質で、痛いくらいに熱い体温が伝わってくる。腕を振りほどこうと思えばできるのに、リリーはなぜかそうしなかった。やがて、レインは少し身を屈めてリリーの耳元へ口をよせる。



「ありがとう、リリー」



 低く優しい声がリリーの耳をくすぐる。リリーは眉根をよせながら首をすくめた。



「ねぇ、くすぐったいわ……」



 自分でも信じられないほど甘く切ない声色だった。リリーは自分の声色に赤面し、慌ててレインの腕を振りほどく。



「ちょっと、調子に乗らないで」

「も、申し訳ございません!! リリー殿下!!」

「もう……」



 リリーは照れ隠しでもするようにわざと頬を膨らませてレインを睨む。



──あれ……?



 レインの申しわけなさそうな顔を見ているとリリーはなぜか心が温かくなるのを感じた。それは、今までに感じたことのない不思議な感情だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る