第19話 口づけ02

 いかなる理由があるにせよ、リリーが自害すればウルド国は罪を問われてしまう。家名の断絶はまぬがれない。『ウルド国の未来を考えろ』というロイドの言葉がレインへ重くのしかかる。レインは頷くことしかできなかった。



「わかりました。リリーの話を信じます」

「本当ですか?」



 リリーの顔つきも明るくなる。すぐにクロエの方を向いた。



「クロエ、すぐに沸騰したお湯を用意してください」

「畏まりました」



 クロエは隣室へと向かい、少したつと手押し車を押してきた。手押し車には小型の焜炉コンロが設置されており、その上には銀でできた深めの容器が置かれてある。すでに用意されていたのだろう、容器のなかではお湯がぐつぐつと煮えたぎっていた。


 

「クロエは席を外してください。レインの治療中は誰も部屋に入れてはなりません。夫婦となる二人の時間です……そのことを忘れないでください」



 リリーはいつになく強い口調で命じる。クロエは笑窪をつくって微笑んだ。



「御意にございます。リリー殿下のご下命があるまで、何人なんびとたりとも部屋へ近づけません。皇女近侍隊の名にかけてお誓い申し上げます」


 

 クロエは一礼して去ってゆく。リリーはレインと二人きりになると小箱を開けた。なかには半分ほどまで黒い粉が入っている。さらさらとした黒い粉末は、ウルド砂漠の砂とかわらないほどきめ細かい。



「これが、『昏い静寂の塔アグノス』よりいただいた薬です。この小箱を満たすまで熱湯を入れ、よく溶かし、かき混ぜるのだとか……」



 リリーは銀製の柄杓で熱湯をすくい、箱のなかへゆっくりとそそぐ。2杯ほどそそぐと小箱は満たされた。湯気が立ち昇るとリリーはこれも銀製のスプーンでかき混ぜる。すると、黒い粉末がどろどろとした粘液へとかわった。



──これを身体に塗れというのか……。



 レインの動揺は増すばかりだった。リリーの話は荒唐無稽であり、信じる根拠は『リリーの権威と権力』くらいしかない。皇女なら人々の知らない万能薬を持っていても不思議ではない……レインはそう自分へ言い聞かせた。すると、レインの心を察したのか、リリーは手を動かしながら語りかけてくる。



「これは、わたしにとっても賭けなのです」


──『賭け』だって? 僕の治療を『賭け』というのか?



 レインは引っかかるものを感じて首を傾げた。



「それはどういう意味ですか?」

「もしレインに何かあれば、わたしも無事では済まないでしょう。ウルディードを生きて出ることは叶いません」

「……」

「あなたの家族や友人たちはわたしを許さない。わたしを殺すでしょうね」

「そ、そんなことは」

「ありますよ。ときとして愛情や友情の前では、帝国の威信や権威なんて些細な問題です。そのことはわたしも知っていますから……」



 リリーは視線を上げて口元に笑みをたたえた。



「そもそも、わたしが『昏い静寂の塔アグノス』に騙されるのなら、そこまでの女ということ。レインが死ぬようなことにでもなれば、わたしも死んで不明を詫びます。そのときは冥界で夫婦となりましょう」

「……」



 レインは『なんて乱暴で無責任な言い草だ』と呆れた。しかし、リリーを見ているとなぜか無条件で頷いてしまう。リリーの青い瞳にはレインの心を惑わせる狂気じみた覚悟が灯っていた。



「さあ、それでは服を脱いでください」

「!?」

「何を驚いているのです。薬を塗るのですから当たり前でしょう」

「は、はい……」



 レインは上半身の甲冑を外し、包帯もほどく。赤く爛れた身体は痛々しいほどに腫れあがり、膿と包帯がくっついていた。えた臭いを気にしてリリーを見るが、リリーはまったく気にしていない。



「下も脱いでください。遠慮は無用です」

「し、下は自分で塗ります」

「いいえ、わたしが塗ります。あなたの身体をよく知る機会ですから」

「しかし……」

「わたしとレインは夫婦になるのですよ。何を躊躇っているのですか」



 リリーの口調は優しいが、どこか有無を言わせない凄みもある。レインは羞恥心にさいなまれながら下半身の鎧と包帯を外した。身体は火傷したときのように爛れ、カサブタや膿が全身を覆っている。食物が腐りかけるときのようなえた臭いも強くなった。しかし……。



──これがレイン・ウォルフ・キースリング。



 リリーは一糸いっしもまとわないレインを見て少なからず感動を覚えた。レインの皮膚の下の筋肉はとてもしなやかであり、浮き出た血管は大きく息づいている。逞しい身体つきはジョシュやダンテと比べても遜色がない。黒い瞳は恥じらいを秘めた輝きを放ち、何も知らない純粋な少年のようだった。



──この『鉄仮面の狼』をわたしの忠犬にかえてみせる。



 リリーはレインをベッドに座らせた。



「最後に尋ねますが、『昏い静寂の塔アグノス』によれば想像を絶するような痒みと疼き、そして痛みが襲ってくるそうです。身体を掻きむしらないように手枷てかせを使いますか?」



 リリーが尋ねるとレインは少し目を伏せた。今さら後には引けない。囚人のように手枷をつけるのはさらなる屈辱だった。



「いえ、いりません。これは僕と身体の戦争です。自分の力を信じてリリーの親切心に応えます」

「……そうですか。わかりました」



 レインはリリーを信じて真っすぐに見つめてくる。リリーはレインの覚悟を感じて頷いた。



「それでは、塗りますね……」



 リリーは細い指先で黒い粘液をすくう。粘液はまるで生き物のように生暖かく、指先になじんでまとわりついてきた。

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