第19話 口づけ01

 レインの髪や眉はほとんど毛が抜け落ち、カサブタだらけの赤い頭皮が露わになっている。まぶたも赤く腫れあがり、額や頬からはところどころで膿が流れ出ていた。



──初めて自分から素顔を見せた。ああ、僕の身体が健康であったなら……。



 レインは思わず目を閉じた。リリーに見られていると思うだけで恥ずかしく、屈辱的な感情になる。身体に対する劣等感は尋常ではなかった。



──リリーはなんて思うだろう……。



 恥ずかしさに耐えているとリリーは悲しげに眉をひそめた。

 


「痛々しいですね」



 リリーはレインの頬へ手をのばし、流れる膿をそっとぬぐった。仕草は優しく、慈愛に満ちている。レインは驚いて目を開いた。そのとき……。


 リリーはつま先立ちになってレインの唇へ自身の唇を重ねた。あまりに突然のことで、レインは腫れあがった瞼を上げたまま息を呑んで固まってしまった。初めての口づけは信じられないほど温かく、柔らかな感触がした。



「リ、リリー。やめてください」



 レインは思わずリリーの肩を押した。戸惑い、困惑しながら後ずさる。



「う、膿は汚くて毒があり、唇も穢れています」

「だからどうしたと言うのです。わたしは未来の夫の頬をなでて口づけを交わしたまで。まあ、初めての口づけでしたから緊張しましたけど」



 リリーはレインの容姿や気持ちをまったく気にしていない。『口づけをしたいからした』と一方的な口ぶりだった。気恥ずかしそうに微笑んでいるとそこへクロエがハンカチを持ってくる。リリーはハンカチで指先についた膿を拭きながらレインを見つめた。



「もしわたしが……『レインの病を治せると言ったら』どう思いますか?」


──僕を治すだって?



 レインは訝しげに目を細めた。皮膚病は生まれながらのもので原因がわからない。ロイドやサリーシャが名医や良薬を探し出しても治らなかった。



「リリーには医療の知識や経験があるのですか?」

「いいえ。宮廷大学で薬学を少し学んだ程度です」

「……」



 何を言ってるんだ? とレインは思った。突然口づけをしたかと思えば、今度は皮膚病を治すと言う……リリーの言動に思考が追いつかない。リリーはそんなレインを見て微笑んだ。



「わたしには『神域に住まう友人』がいます。友人はいつも帝都の上空から人々を見下ろし、何も話さず、誰とも交流をはかりません。でも、わたしは違います。わたしだけは友人の声が聞こえ、語らうことができたのです。友人によれば、レインの皮膚病にはこの星が関係しているそうです。星を巡る気脈にレインの身体が拒否反応を示しているのだとか」

「……」



 リリーは突拍子もないことを話し始めた。レインが戸惑っているとリリーはサイドテーブルに置かれた小箱を手に持った。小箱の蓋には『翼竜』の紋章が彫りこまれてある。



「この中には友人よりいただいた薬が入っています。使えば皮膚病もたちどころに癒えることでしょう」

「……」



 リリーはにこやかに小箱を見せてくる。レインの胸は猜疑心に包まれた。リリーの恋愛における所業も知っている。『婚約者の回復を願う』という動機はもっともらしいが、それだけではない気がしていた。そもそも、『神域に住む友人』が誰かもわからない。



「リリー、その友人とは誰のことですか?」

「……」



 レインが尋ねるとリリーは少しの沈黙を挟んで答えた。



「『昏い静寂の塔アグノス』です」


──『昏い静寂の塔アグノス』だって??

 


 レインの猜疑心はますます強くなる。リリーの言う『昏い静寂の塔アグノス』とは帝都グランゲートにそびえる塔のことだった。リリーは塔を友人と呼び、語らったという。まったくもって信じられない話だった。



「僕をからかうのはやめてください。塔がどうやって薬を渡すというのですか? リリーのところへその小箱を持ってきたとでも?」

「そうです。ある日、わたしは『昏い静寂の塔アグノス』に呼ばれました。すると、祭壇前の黒い壁面が小さく開き、この小箱が置かれていたのです。『昏い静寂の塔アグノス』は『この薬でレインを癒せ』と言いました」

「……」

「信じられないかもしれませんが、わたしは『昏い静寂の塔アグノス』と語らうことができます。かつて、母ルシアがそうであったように……」



 リリーは悲しげに小箱を見つめた。リリーの母ルシアといえば『帝国の繁栄を願いながら餓死した』という。苛烈な最期はウルドまで轟いていた。リリーは前皇后まで引き合いに出している。レインが黙りこむとリリーは続けた。



「この薬を使えば三日三晩の間、想像を絶するような痛み、痒み、疼きが襲ってくるそうです。しかし、地獄のような三日間が過ぎ去れば皮膚が癒えるそうです」

「……」


 

 レインはやはり何も言えずにいる。すると、リリーは小さくため息をついた。



「わたしは母ルシアのことまで、すべてをお話しいたしました。人が聞けば馬鹿にするようなことを、思いきって話したのです。それはレインの皮膚病が治って欲しいと切に願っているからです。それでもわたしを信じないというのなら仕方ありません。わたしには妻の資格がないということなのでしょう……」



 リリーは小箱をクロエに渡した。そして、傍らに置かれた黒革のバッグを持ち、中から短剣を取り出す。鞘の端には円形の瑠璃ラピスラズリが嵌めこまれていた。



──は、母上の短剣……。



 レインが驚いているとリリーは静かに微笑んだ。



「レインに妻と認めてもらえないのであれば皇女としての面目を失います。どうして生きていられましょう……サリーシャ殿より頂いたこの短剣で喉を突き、わたしの至誠を示すまでです」

「!?」



 リリーはどこまでも一方的だった。瑠璃ラピスラズリのように青く気高い瞳には狂気が揺れている。レインにはリリーが嘘を言っているように思えない。もはや脅迫だった。

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