第14話 ウルド砂漠

「えっ!?」



 砂漠に不慣れなリリーはときおり砂に足を取られた。転びそうになるたびにレインの腕を強くつかむ。レインの体幹はしっかりとしていて揺るがなかった。しかし、鉄仮面をそむけて動揺を隠しきれていない。



「リリー殿下、みんなが見ております……」

「え?」



 遠巻きに大軍が見守っている。レインは周囲の目を気にしたが、リリーはまったく気にしていなかった。



「未来の夫婦が腕を組んで歩く。いけませんか? レインは嫌なのですか?」

「いえ、嫌ではありませんが……」



 リリーは少しわざとらしく眉根を寄せてレインを見上げる。青く澄みきった瞳はあまりにも切なげで、レインは言葉に詰まってしまった。二人の間に気まずい沈黙が訪れるとリリーは話題をかえるように砂丘の合間を指さした。そこには巨大な軍船が停泊している。帆や船体には大きく『狼』の紋章が印されていた。



「あれはウルドの砂船すなぶねですか?」

「はい。戦列艦せんれつかんと言いまして砂の上を帆走はんそうすることができます。船首についているのは巨大ないしゆみで、弩砲どほうと言います。石や槍、または炸裂弾を放つことができます」

「まさに砂漠の帝国海軍ですね。とても勇壮な姿です」



 リリーが褒めるとレインの表情が明るくなる。レインは嬉しそうに説明を続けた。



「ありがとうございます。あの艦は『キースリング』という船名で、我がキースリング家の家名を冠しております」

「そうなのですね」

「リリー殿下には『キースリング』に座乗ざじょうしていただき、藩都はんとウルディードまで向かいます」

「なるほど……わっ!?」



 再び、リリーは転びそうになった。態勢を崩すとすぐにレインの腕をつかむ。レインは腕に柔らかな胸の感触を感じて頬が熱くなるのを感じた。動揺のあまり口調もたどたどしくなった。



「リ、リリー殿下、お気をつけください」

「……はい。わかりました」



 リリーはレインを見上げながら微笑んだ。レインの腕は緊張で強張こわばっている。リリーはレインの動揺を見透かして手を放した。二~三歩進んでしゃがみこみ、両手で砂をすくう。



「本当に綺麗」



 リリーは両手で砂をすくい、さらさらと大地へこぼした。細い指の合間からこぼれる白い砂は陽射しを浴びてキラキラと輝き、風になびいて斜めに落ちる。リリーは何度も砂を掬いながらぽつりと呟いた。



「砂に含まれる石英せきえいが光に反射して、白く輝いて見えるのですよね?」

「さようです……リリー殿下はウルド砂漠についてお詳しいのですね」 



 レインはリリーが白砂はくさの由来を知っていることに驚いた。リリーの真後ろに直立し、腕を後ろ手に組んでリリーを見守る。目の前のリリーは砂遊びに夢中になる少女のようで、会ったばかりだというのにとても愛おしく感じられた。『傾国姫けいこくき』と噂される皇女にはとても見えない。

 


「詳しくもなります。ウルド砂漠を見てみたいと、ずっと願っていました。だって、あなたの故郷なのですから」

「……」



 レインは無言だったが胸の内は歓喜で震えていた。



──リリー殿下は僕と同じようにウルドを愛してくださるかもしれない。



 レインにとって結婚とは価値観の共有そのものだった。同じ世界に生き、お互いを尊重しながら喜怒哀楽を共にする……レインが読んできた恋愛小説ではすべてがそう描かれていた。


 自分の身体に劣等感を抱くレインは恋愛の経験がない。小説を鵜呑うのみにし、『現実世界もそうなのだ』とかたくなに信じこんでいる。痛々しいまでに結婚という儀式に幻想を抱いていた。リリーが語る言葉のすべてを信じこみ、『本当にそう思っているのですか?』と心の奥底へ踏みこむ必要性をまったく考えなかった。



「やっと願いが叶いました」



 レインの心中をよそにリリーはゆっくりと立ち上がりる。レインへ振り向きながら風に流れる銀髪を耳へかけた。



「ねぇ、レイン……先ほどから『リリー殿下』と呼んでいます。『リリー』ですよ」

「で、ですが……」

「呼んでみてください。お願いします」



 リリーの声はレインの耳元を優しくくすぐる。レインは鉄仮面の奥で困り顔になった。女の名前を親しげに呼び捨てにするなんていまだかつて経験がない。それに、結婚相手とはいえリリーは神聖グランヒルド帝国の皇女。「リリー」とれしく呼ぶことはできなかった。


 

「ほら、早く……」



 リリーはさくら色の唇を艶めかしく動かし、甘い声色で催促する。レインは頭の奥がけるように熱くなった。



──名前を呼ぶだけなのに、どうしてこんなにも緊張するんだ……。



 戸惑いは大きくなるばかりで、今まで知らなかった熱い感情が心を支配してゆく。やっとの思いで口を動かすが、声は震えていた。



「……リ、リリー」

「……」



 名前を呼ばれるとリリーは気恥ずかしそうにうつむいた。



「頼んでおいて言うのもおかしいですけれど……なんだか……照れますね」

「……」



 はにかむリリーは仕草までが可愛らしく、レインは返答に困ってしまった。やがて、乗ってきた馬の近くまでくると話題をそらすように乗馬をうながした。



「リリー殿下、この馬にお乗りください。手綱たづなを持っていただけたら僕がくつわを引きます。あの……えっと……」



 レインはやはり「リリー」と呼べなかった。一人で馬に乗れるのか? と尋ねたかったが、うまく質問することもできない。すると、リリーは自分から馬へ近づいた。



「馬くらい一人で乗れます」



 リリーは鞍へ手をかけると身軽な動作で横乗りをする。その瞬間、ドレススカートの裾が乱れ、青色のスカートから白い太ももが露わになった。



「リ、リリー殿下。あ、あの……」

「え?」



 レインが慌てて目を伏せるとリリーはすぐに自分の態勢に気づいた。しかし、慌てるどころか、レインの反応を楽しむかのようにわざとらしく太もも動かしながらスカートの裾を直した。



──太ももを見たくらいで狼狽ろうばいするなんて……。



 レインの反応は常に卑猥な目で見てくる帝都の貴族たちと違う。リリーには新鮮で可愛く思えた。



──本当に純粋なのね……。



 リリーは少しだけレインをからかいたくなった。見せつけるように太もも動かしてスカートへ触れる。



「このドレスは軍服に似せて作らせたのですが、乗馬には適していませんね。それと……」



 リリーは眉をよせて少し困ったような表情をつくった。



「先ほどからリリー殿下と呼んでいます。リリーですよ……」

「申し訳ございません、リリー殿……リ、リリー」



 レインは困惑するばかりで会話にならない。リリーはもどかしさを感じながら続けた。



「レイン、わたしたちにはもっと親しくなる必要があるようです。一緒に乗ってください」

「で、できません!! 僕なんかがリリー殿下と一緒に乗馬するなど……」

?」



 リリーは不思議そうに首を傾げながら繰り返した。口元からは笑みが消え、目つきも鋭くなっている。



「レイン・ウォルフ・キースリング。わたしは従者に会いに来たのではありません。婚約者に会いに来たのです。大勢の帝国軍が見ているのですよ……何度も言わせないで」



 落ち着いた口調だが言葉の端々からは冷たい感情が伝わってくる。レインはギクリとして背筋を伸ばした。



「畏まりました!!」



 レインは鞍に手をかけるとリリーの後ろへ飛び乗った。横向きに乗るリリーを抱きかかえるようにして手綱たづなを持つ。その動作はあまりにも素早く、リリーは目を丸くしてレインを見上げた。



「さすがはウルドの戦士。乗馬にはれているのですね……」

「はい。一応は……」



 レインの緊張がけることはない。儀礼用の軽装甲冑を着ているが、高鳴る鼓動がリリーに聞こえてしまわないか不安だった。やがて、リリーはレインへ尋ねた。

 


「こうやって誰か女性と一緒に乗ったことはありますか?」

「そ、そんなことはありません!!」

「そうですか……」



 リリーはなぜかレインの答えが嬉しかった。満足そうに目を細めるとレインの胸へよりかかって身体をあずける。レインは腕のなかにいるリリーを見れなかった。鉄仮面を前方へ向けたまま、上ずった声で出発を告げる。



「それでは、参ります」

「はい、お願いいたします……」



 レインが鞍を蹴ると馬はゆっくりと歩き始める。すると、二人を見守っていた軍勢に動きがあった。



「「「リリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ殿下万歳!! レイン・ウォルフ・キースリング万歳!!」」」 



 ウルド砂漠に陣太鼓の音が響き渡る。兵士たちの祝福はときの声のように大地を震わせていた。

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