第13話 儀礼

 盛装馬車せいそうばしゃはダルマハルの城門を抜けたところで止まった。ここから先はウルド砂漠であり、重量のある盛装馬車は砂に埋もれて通行できない。まずはクロエが降車して周囲を警戒した。城門周辺にはロイドやサリーシャの軍勢、そして親衛隊と近侍隊が展開して守りを固めている。



「リリー殿下、降りても大丈夫です」



 クロエは車内へ向かって声をかけ、リリーの手をとって降車を手伝う。リリーは白い砂を踏みしめて辺りを見渡した。



──まさに、世界の果てね。



 目の前には青く澄みきった大空と眩しいほどに白く輝く砂漠が広がっている。照りつける陽射しは苛烈なほどに強く、吸いこむ空気は熱く乾ききっていた。



「ここからは一人で歩きます」

「はい、畏まりました。何かあればすぐに駆けつけます」



 クロエは深々と一礼して引き下がる。リリーはウルド砂漠への第一歩を踏みしめた。



──ここからわたしの戦いが始まる。



 軍靴から伝わってくる砂の感触はとても不安定でどこか心もとない。進むにつれてリリーを見守る帝国軍も遠ざかってゆく。かわりに、視線の先には新たな大軍が現れた。軽装歩兵や軽騎兵の大部隊が遠巻きにダルマハルを取り囲んでいる。巨大な戦列艦の帆や軍旗には『狼』の紋章が縫いこまれていた。



──なんて勇壮なのかしら。



いまだかつて、これほどの大軍で迎えられた皇女はいないだろう。リリーが感心していると前方から一騎の騎兵が進んでくる。馬に乗っているのは儀礼用の軽装甲冑をまとう鉄仮面の男だった。



──あれが、レイン・ウォルフ・キースリング……。



 レインを見た瞬間、リリーの心と身体は臨戦態勢をとっていた。リリーにとっては表情も、身体も、仕草でさえもが武器だった。はやる心を抑えながら空を仰ぐと、瞳と同じ青い空が広がっている。



──この空もいずれわたしのもの。いいえ、帝国中の空がわたしのものになる。



 リリーは皇女としての覇気と気概きがいを漲らせてレインと向き合う。二人の距離が縮まるとレインは馬を降り、帯剣を抜いてその場にひざまずいた。地に膝をつけるのは無抵抗を意味し、剣をささげるのは『わたしの生殺与奪をあなたにゆだねる』ということを意味している。帝国における最高の儀礼だった。



「リリー殿下におかれましては遠路のご来訪、祝着しゅうちゃく至極しごくに存じます!!」



 リリーが目前まで近づくとレインは深々と頭を上げた。



「わたしは神聖グランヒルド帝国よりウルド国を預かる、藩王ロイド・ウォルフ・キースリングの息子、レイン・ウォルフ・キースリングでございます。リリー殿下をお迎えに上がりました!!」



 レインの声は涼やかで凛としている。それに、鉄仮面をしていてもよく通った。



「……」



 リリーはひざまずくレインを静かに見下ろしていた。声をかけるでもなく、再び遠くへ視線を移す。砂丘にはレインの軍勢がひしめき合っていた。



──まるで、レインは神聖グランヒルド帝国の大将軍ね。



 視線を戻すとつるぎをささげる青年が確かな存在感を放っている。レインを見ていると世界のすべてが跪いているかのように錯覚した。本来であればつるぎに手を置いて「拝謁を許す。おもてを上げなさい」と言えばよいだけだが、素直にそうすることができない。いつの間にか、リリーはレインや軍勢の威容に圧倒されていた。



──このわたしが怖気おじけづいている……ありえないわ。わたしはレインよりも上位者、高貴な存在。だから、こうやって見下ろしているの。上位者は常にすべてを見下ろしているものよ。恐れてなどいない。



 リリーは自分へ言い聞かせると立場を確認するように問いかけた。



「レイン・ウォルフ・キースリング。一つ尋ねます」

「は、はい。なんなりと」

「そなたは帝国最高の儀礼でわたしを出迎えますが……もしガイウス大帝おじいさま行幸ぎょうこうなさったおりには、いかにして出迎えるつもりですか? 帝国にはこれ以上の敬意を示す礼法はないと心得ますが……」

「そ、それは……」



 レインは言葉に詰まった。すでに最高儀礼をとっており、『リリーの上位者である皇帝が来た場合にはどうするか?』という質問には答えようがない。リリーはそれをわかっていながらあえて尋ねた。



──レインが見苦しい言い訳を並べるなら、このまま放っておこうかしら……。



 そう思った瞬間、レインの声が聞こえた。



「か、考えておりませんでした……」

「……」



 リリーは意外そうに眉を上げた。レインの声はかすかに震えており、正直であろうとする純粋な気持ちが伝わってくる。その気持ちがリリーの緊張を解きほぐし、意地悪な質問をした自分が恥ずかしく思えた。



「レインは正直な人なのですね……」



 リリーは口元に柔らかな笑みを浮かべた。



「ごめんなさい。あなたの出迎えがあまりにも立派で圧倒されてしまいました。なんだか悔しくて……少しからかってみたくなったのです」

「……」

「許してくださいますか?」

「も、もちろんでございます!!」

「ありがとうございます。では、儀礼に応えますね……」



 リリーはささげられたつるぎに右手を置き、威儀を正して声をかけた。



「出迎え、大義たいぎである。わたしはリリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ。先帝ルキウスの次女にして、神聖グランヒルド帝国における皇位継承権第五位の皇女。レイン・ウォルフ・キースリング、おもてを上げなさい」

「はい……」



 拝謁を許すとレインが恐る恐る顔を上げる。鉄仮面の奥の眼差しはとても優しげで、黒い瞳と視線が合うとリリーはかすかに心臓が高鳴るのを感じた。



──レイン・ウォルフ・キースリング……鉄仮面の狼。



 少したつとリリーは包帯の巻かれた手を取って立ち上がらせる。レインが恐縮するとにこやかに微笑みかけた。



「堅苦しいのはここまでにしましょう。わたしはあなたのとなるために来ました。気兼きがねなくリリーと呼んでください」

「で、殿下それは……」



 レインは奔放ほんぽうなリリーの態度に戸惑った。堂々としていたかったが、リリーを見ていると思うように言葉が出てこない。やがて、リリーはレインの左腕に両手を絡めた。



「わたしも、親しみをこめてレインと呼びますから。さあレイン、ウルド砂漠を案内してくださらない? 白い砂の砂漠だなんて素敵だわ……」



 リリーはレインの腕を引いて歩き始める。レインの鉄仮面姿を気にもとめていない。レインは意外だった。



──リリー殿下は僕が怖くないのか……?



 レインは複雑な心境でリリーを見下ろした。リリーの銀髪は陽射ひざしを浴びてまぶしいほどに輝き、艶やかな唇は赤く色づいている。



「どうかしましたか?」

「いえ、なんでもありません」



 突然、リリーはレインを見上げて視線を合わせた。サファイアのように輝く青い瞳は吸いこまれそうなほどに美しい。レインは思わず息をのみ、まばたきができなかった。

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