第5話 怪物
長い夜が終わろうとしていた。今頃は『リリーの結婚』を伝える急使が帝国中へ向かって出発しているだろう。リリーは足取りも軽く、ソフィアとクロエを
フレイヤ神殿の浴場は神殿内部の高所に造られている。巨大な長方形で、まるで帝都にある水泳競技場のようだった。周囲は円形の石柱で囲まれ、その合間からは宮殿内の城塞や帝都の街並みが見下ろせる。
浴槽は大理石でできており、
「クロエ、ホックを外してちょうだい……」
「了解~」
浴場につくとリリーはドレスを脱ぎ始めた。後ろではクロエが背中にある小さな金具を慣れた手つきで外してゆく。
「リリーの前だと、どんな華美なドレスも
クロエは露わになったリリーの裸体を見てため息をついた。きめ細やかな肌は
「本当に綺麗……」
何度見ても感心せずにはいられない。クロエは『帝国の珠玉』と謳われる
突然、リリーが何かを投げ捨てた。カシャンという音がして
「リリー、これは?」
「サリーシャ将軍からもらった短刀。ガラクタよ」
リリーは醒めた口調で言いながら浴槽へ向かう。すると、近くにいたソフィアが短刀を拾い上げ、たしなめるような眼差しをリリーへ向けた。
「これは武人からの贈り物。しかも、サリーシャ将軍は形式上とはいえ、リリーの
「わたしとレインが無事に婚礼を挙げれば……ね」
リリーは挑発的に言いながら水浴びを始め、
「わたしは神聖グランヒルド帝国の皇女。砂漠の作法なんて知らないわ」
リリーは淡々とした口調で言い放つ。サリーシャにとって短剣がどれほど大切な意味を持つか……そんなこと、リリーにしてみればどうでもいい話だった。ありがたくもなければ興味もない。そもそも、レインと
「わたしに剣は必要ないわ。だって、わたしはすでに『
「それは、そうかもしれないけど……」
「わたしは誰の指図も受けないわ」
「……」
ソフィアは不服なのか、短刀に視線を落としたまま無言になる。リリーはそんなソフィアを尻目に、膝まで張られたお湯のなかを歩いた。そして、ソフィアの沈黙が続くと苦笑しながら振り返る。
「ソフィーはサリーシャ将軍を尊敬しているのね」
「ああ。剣に生きる武人としてサリーシャ将軍を尊敬している」
ソフィアは短剣を持ったまま浴槽の
「リリーだって……皇女なら、帝国のために戦うサリーシャ将軍を
「なるほどね。確かに、そうかもしれないわ」
リリーは膝を屈めると湯舟のなかをソフィアのもとまで泳いだ。そして、大理石の
「ソフィー、友人としての忠告なら受け入れるわ。短刀はわたしの
「リリー……」
「だって、わたしはソフィーやクロエみたいに戦えないもの。そのときが来たら
リリーは少し顔を傾けると人差し指で白い首筋をトントンと叩いてみせる。表情と声色は明るいが内容は暗い未来を暗示していた。
──リリーの言う「そのとき」は、わたしとクロエが
ソフィアはリリーの美しい裸体を見下ろしながら再び黙りこんでしまった。すると、静寂を見計らったかのように石柱の間から夜風が吹きこんだ。
一陣の風は浴場に立ち昇る湯気を運び去ってゆく。そのとき、フレイヤ神殿を押し潰すような低い唸り声が浴場全体に響き渡った。声は神殿よりも高く、遥か上空から聞こえてくる。クロエもドレスを畳んでいた手をとめて天井を見上げた。
「『
クロエは不安げに呟くと足早にリリーとソフィアのもとまでやってくる。賊を恐れない『
「クロエ、これは帝都の上空を流れる気流が『
「そうなんだ」
「ああ。こんなにはっきり聞こえるのは珍しいけど……わたしとリリーも何回か聞いたことがある。そんなに怖がることはない」
「そっか。教えてくれてありがとう」
安心したのか、クロエはソフィアを見上げながら顔をよせて「ソフィーは物知りだね」と付け加える。甘えた仕草を見せるのはクロエなりの愛情表現だった。すると、二人の話を聞いていたリリーが湯舟から上がった。
「わたしだって、色んなことを知っているわ」
リリーはわざとらしくソフィアに対抗する。大理石の
「『
「その話なら知ってるよ。有名じゃん」
「そう? じゃあ、このお話は?」
クロエが気まずそうに言うとリリーは少し前屈みになりながら視線を外へ移した。風が運び去った湯気の向こうには闇よりも濃い『
「国教であるラト教の異端書だと……『
リリーは組んでいた足を
「きっと、その怪物は青い瞳に銀色の頭部をしているわ」
リリーは揺れ動く不確かな姿を見つめながら、いたずらっぽく笑ってみせた。
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