イマジナリーフレンド
八軒
イマジナリーフレンド
あの家は寒かった。
冬が訪れれば窓にビニールを貼る。外窓も内窓も枠は木で出来ている。今時は熱伝導率の低い木製の窓枠が結露防止になるとかで再評価されているが、あれはペアガラスだったりで全くの別物と思っていい。ただの古いだけの窓枠は、風雪に晒されて灰色とも茶色ともつかないささくれ立った色をしていて、開けるときには軋んだ音をたてる。
そんな窓に外側から農ポリみたいなビニールを貼るのだ。正直、あんなものに効果があったのだろうか? 疑問に思い検索してみれば、あれから三十年以上経った今でもこの土地の古い家ではビニール貼り文化は続いていた。
どうやら効果はあったらしい。俺が幼少期に住んでいた家がボロかっただけで。
ビニールを貼ったところで窓の内側には結露が溜まり氷が張る。初めはトゲトゲした小さな粒が散らばり、それが重なれば大きな模様が現れてくる。結露が重力によって流れるせいだろうか。氷は下から上へと育つシダ植物のような、あるいは地を這うビャクシンに似た複雑な構造を形作る。
ストーブを焚く。陽が当たる。窓を彩る水の結晶は溶けて凍ってを繰り返す。そうするうちに整然とした構造は、ぼこぼことスライム状に分厚くなってゆく。こうなると窓の桟までが氷で埋まり、容易に窓を開けることは叶わない。
どのみち真冬に窓を開けることなどない。物理的にも心理的にも、あれは閉鎖感の象徴みたいなものだ。
冬は長く、暗い。
一日当たりの平均日照時間は三時間を切る。晴れ上がった空はそれはそれで、肌を刺すような寒さをもたらして、雪は踏まれるたび片栗粉のように鳴く。
家の端にある使われていない三畳間は野菜室と呼ばれていて、そこでは度々みかんが凍っていた。
寝室に暖房はなく、息は白くなる。正直、気温は野菜室と大差ない。畳の上の使い古された平べったい布団は、じっとりと冷え切っている。毎朝、きちんと畳んで押し入れに上げているというのに。押し入れ自体が湿気っていたんだろう。思い出せばカビ臭さまで鼻先に甦るかのようだ。
あの布団に入るのは、天気の悪い日に海水浴に行って水の冷たさに覚悟を決めながら肩まで浸かるようなものだ。海のそれは特別な時間で、一度入ってしまえば美しい海中と楽しい一日が待っているが、冷たい布団に入れば待っているのは変わらない明日で、その次の日もまた次の日も繰り返さなければならない。
北国の家は、冬も快適に過ごせるように作られている。部屋の隅々まで暖かく、半袖短パンでアイスを食える。一般的には。
大人になって興味から、暖房無しで一冬を過ごしてみた今ならわかる。例え息が白くなるまで室温が下がっても、ふかふかの乾いた清潔な毛布とシーツがあれば、布団は入った瞬間から暖かいものなのだ。
当時は、寒いとは思っても辛いとは認識していなかった。暖かい布団が欲しいとも思わなかった。毎日とはそういうもので、冬の夜は寒いもので、生きるというのは大人の顔色を窺いながら腹を空かせることで、それ以外の世界など幼い俺は知らなかった。
冷えた布団で丸くなり、僅かなテリトリーを温めようと骨張った身体を震わせる。
そんな、いつもの夜だった。
俺は何かを聞いた。チリチリと鳴いている。今、頭まで被った布団に隙間を空けようものなら、冷え切った外気が侵入して台無しになる。なのに、気がついた時には俺は布団から出て、窓に吸い寄せられるように歩いていた。
窓に張った氷が、黄色みを帯びた光を受けて柔らかく輝いている。外に、何かいるのだ。確かめなければ。
内側の窓は表面が凸凹した模様のあるガラスで、このままでは外をはっきりと見ることはできない。両手を窓枠に添えて、押して持ち上げつつ開けようと試みる。夏でも開けるのに難儀する建て付けの悪さだ。桟を埋める氷が更に邪魔をする。全身に力を込め、カタカタと何度もゆする。不快な音を立てて、少しだけ窓は動いた。
寒さも忘れ、爪先立ちして隙間から外を覗き見る。
俺は眩しさに目を細めた。
吹き溜まりの雪が高く積もった上に、満月の色に光る玉が浮いていた。玉は拳くらいの大きさだ。
光は下の雪に当たって、そこだけが鮮やかに煌めいている。積もってから数日と経ったざらめ状の雪の、粒の一つ一つがそれぞれの角度で光を受けて淡い虹色を反射していた。
瞬間、横殴りの衝撃が俺を襲った。
息が止まり、床に転がる。痛みに呻く俺の上で怒鳴り声が響く。物音に気づいて起きた父親が背後から蹴りを入れたのだ。
俺は訴えた。光る玉がいた事を。普段なら口答えなどあり得ない。ひたすらに黙って防御に徹していればどうにかなることは知っている。なのに、どうして口を開いてしまったのか。
わかりきっていたことだ。それは無意味どころか更に痛みを増やすだけの行為だった。
俺があの夜見たものを口にすることは、二度となかった。
♦︎
(オブジェクト自体を発光させるより、うーん……)
モニタの中で、真っ白なドレスを着た女性と幾何学的なモチーフで飾られたロッドを持った男性が、そっと手を合わせている。
触れ合った指と指の隙間から逆光が漏れ出て、二人の血色を透かす。その光の振る舞いは、情報の連なりに鮮やかな生命感を与えていた。
といってもこれは、
この二人は友人のネットゲームのキャラクターを模してモデリングしたものだ。
俺はキーボードとマウスを操作して、画面上のライトや物体を動かした。キャラクターに狙った形のハイライトを落とすために、光る物体を設置してみたのだが、レンダリングしてみると想定外の問題があった。床にその物体が映り込んでしまうのだ。
Blender 使いの集まる Discord サーバーで質問してみるも「有りと無しをレンダリングして、レタッチした方が早いかもですねー」という。何かもっとスマートな解決法はないかと、床に丸く映り込んだ光の球を眺めて考える。
床に映り込んだ、光る球体――
その視覚刺激は、俺の奥深くに沈んでいた光景を浮かび上がらせた。堰が切れたように、関連する記憶と感情もが蘇る。
「どした?」
後ろでふかふかのベッドに座ってソシャゲをやっていた友人が、唐突に立ち上がった俺に気づいてモニタを覗き込んできた。
テストでのレンダリングを早くするために、キャラクターは一旦非表示にしてある。そこには、最小限のオブジェクトと謎の光る玉だけが宙に浮いていた。
「何これ?」
「……イマジナリーフレンドかな」
「は?」
イマジナリーフレンドだとは俺も今わかったのだが。
あの一度だけ見た光は、あの夜に自分を見に来てくれたのだと。幼い俺はそう空想し、結論付け、記憶に刻んだ。それが、事実であるか空想であるかはどうでもいい。親や周囲が影響できない、俺だけが知っている、完全に自由な情報であるということが重要なのだ。
親に蹴られ否定された事によって、あの体験は神聖ささえ帯びて、ささやかな支えになっていたに違いない。どんな一日であっても、あの光だけは俺を見に来てくれるかもしれないと――
「……っく」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑いが漏れる。忘れていて当然だ。こんな馬鹿馬鹿しいことは。怪訝な眼差しを向けてくる友人を見れば、その思いはいっそう強くなった。
「いや、なんでもない。解決法思いついたわ。レンダリングに時間かかるし、一旦メシ食いに行かね?」
「行こ行こ、今日できそう?」
「夜かな。明日には原稿送っとく」
レンダリングを開始して部屋を出る。
友人達の結婚式のしおりを彩るべく、グラフィックカードのファンは回転数を上げて回り始めた。
イマジナリーフレンド 八軒 @neko-nyan-nyan
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