第20話
「お嬢さま……つまり、
いつからか、日課になった、早朝のバラ園での逢瀬。
バラに水やりをしていた
髪を短く整えたおかげで、
「やはり、迷惑だっただろうか?」
「いえ、そんな、迷惑だなんてっ」
焦った樹は、胸の前で両手をブンブンと左右に振った。
「そうか。ならよかった」
そう言って目尻を下げた梗一郎につられて、樹の表情も柔らかなものになる。そうしてハッとした樹は、梗一郎に
「そ、それよりも、どうして急に椿子さまの肖像画を?」
大して気になってもいないのに、梗一郎を引き止めたくて、無理やり質問をふる。すると梗一郎は「ああ」と言って、ふっと視線を
樹は反射的に、ペコリとお辞儀をする。すると椿子は「ううん」と咳払いをしながら顔をそむけてしまった。なにか気に触ることをしてしまったのだろうかと不安になり、咄嗟に梗一郎の方を向くと、梗一郎はやれやれといった風に肩をすくめた。
「……椿子の
「はぁ……」
梗一郎の言わんとする意味が分からず、樹は曖昧な反応を返しながら頷く。なにはともあれ、自分が粗相をしてしまったのではないと分かり、樹はホッと胸を
「こほん。……話が戻るけれど、肖像画の件は椿子からの依頼なんだ」
「えっ。椿子さまからのご依頼なんですか?」
「うん。ほら、もうすぐ椿子の誕生日だろう? その
そう言いながらも、目に入れても痛くないほど妹を溺愛している梗一郎は、優しげな微笑みを浮かべて樹を見た。樹は梗一郎の視線を受けて、疑問に思ったことを訊ねてみることにした。
「梗一郎さま」
「うん? なんだい、樹」
「その……『誕生日のお祝い』とはいったい……?」
指先をもじもじさせながら問いかけると、梗一郎は「ああ」となにかに思い至ったような顔をした。
「
「そんな文化があるんですね」
「そうらしいんだよ。と言っても最近では、欧米に感化されて、誕生日パーティーを催す貴族も珍しくないのだけどね。――まあ、といった事情で。樹に、椿子の肖像画を描いて欲しいんだ。……構わないかな?」
「もちろんです。僕なんかの油画でよければいくらでも」
樹は、なんて素敵な文化なんだろうと、満面の笑みで承諾した。
(……僕にお父ちゃんやお母ちゃんがいたら、誕生日を祝ってくれたのかな)
そんな、考えても仕方がないことを思いながら、樹は自分の目元を触ったのだった。
*
「そんな……! 樹は
樹は朦朧とする意識の中で、梗一郎の悲痛な声を聞いた。
昨日まではなんともなかった。
(だってまさか、自分がスペイン風邪に罹るなんて思わないじゃないか)
病状は一晩であっという間に重篤化した。
特効薬などはなく、回復できるかは己の体力次第で、あとは仏に祈るばかりだという。
(僕は、多分、駄目だな)
自分のことは自分が一番よく分かっている。
――早乙女樹は、スペイン風邪で死ぬ。
樹は、ははっと笑った。高熱に冒され、嘔吐を繰り返し、喉が腫れて呼吸もままならない。もはや喋ることも困難だった。
(……長生きは出来ないだろうと思っていたけれど、まさかこんなに早く死期が訪れるとは)
恐怖心はなく、ただただ苦しくて、辛くて、滑稽だった。
お世辞にも、『良い人生だった』とは言えない。
だが、『人に恵まれた人生』だったとは思う。
(心残りはそんなにない。ただ、椿子さまの肖像画だけは完成させたかったな……)
生まれた日を祝福される誕生日というもの。
口には出さなかったけれど、誕生日を祝ってもらえる椿子が羨ましくて、椿子に贈り物をねだられたのだと苦笑する梗一郎に、羨望の気持ちを抱いた。だからこそ――
(完成、させたかったな)
樹は朦朧とする意識の中、アトリエにぽつんと佇む、未完成の
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