第20話

「お嬢さま……つまり、椿子ちこさまの肖像画を……僕が?」


 いつからか、日課になった、早朝のバラ園での逢瀬。


 バラに水やりをしていた早乙女さおとめ樹は、手にしていたジョウロを足元に置いて、梗一郎へと向き直った。


 髪を短く整えたおかげで、偉丈夫いじょうぶな梗一郎のかんばせを拝することができるようになった。そのことに喜びを感じつつ、心許なくなったうなじに右手を当てる。その仕草が誤解を生んだようで、梗一郎は途端に秀眉しゅうびの眉尻を下げた。


「やはり、迷惑だっただろうか?」


「いえ、そんな、迷惑だなんてっ」


 焦った樹は、胸の前で両手をブンブンと左右に振った。


「そうか。ならよかった」


 そう言って目尻を下げた梗一郎につられて、樹の表情も柔らかなものになる。そうしてハッとした樹は、梗一郎に見惚みとれていたのを誤魔化すかのようにバラの生け垣に向き直って、天鵝絨ビロードに似た柔らかな花弁をいじった。


「そ、それよりも、どうして急に椿子さまの肖像画を?」


 大して気になってもいないのに、梗一郎を引き止めたくて、無理やり質問をふる。すると梗一郎は「ああ」と言って、ふっと視線をちゅうに向けた。それにつられて梗一郎の視線の先を追うと、いつから居たのか椿子と彼女の専属女中メイドの花が、居室のテラスで朝食を摂りながらこちらを注視していた。


 樹は反射的に、ペコリとお辞儀をする。すると椿子は「ううん」と咳払いをしながら顔をそむけてしまった。なにか気に触ることをしてしまったのだろうかと不安になり、咄嗟に梗一郎の方を向くと、梗一郎はやれやれといった風に肩をすくめた。


「……椿子のは樹のせいではないから気にしなくていいよ。なんというか、その……ある種のやまいのようなものだから」


「はぁ……」


 梗一郎の言わんとする意味が分からず、樹は曖昧な反応を返しながら頷く。なにはともあれ、自分が粗相をしてしまったのではないと分かり、樹はホッと胸をで下ろした。


「こほん。……話が戻るけれど、肖像画の件は椿子からの依頼なんだ」


「えっ。椿子さまからのご依頼なんですか?」


「うん。ほら、もうすぐ椿子の誕生日だろう? そのいわいの贈り物に、樹が描いた油画が欲しいとねだられてね。自分で頼めばいいのに、私から樹に依頼した油画でなければならないと駄々をこねるんだ。最近は淑女らしくなってきたと思っていたんだけれど、まだまだ子どもで困ってしまうね」


 そう言いながらも、目に入れても痛くないほど妹を溺愛している梗一郎は、優しげな微笑みを浮かべて樹を見た。樹は梗一郎の視線を受けて、疑問に思ったことを訊ねてみることにした。


「梗一郎さま」


「うん? なんだい、樹」


「その……『誕生日のお祝い』とはいったい……?」


 指先をもじもじさせながら問いかけると、梗一郎は「ああ」となにかに思い至ったような顔をした。


日本こちらではあまり一般的ではないよね。椿子が言うには、欧米の文化ならしくてね。年に一度、自分が生まれた日――誕生日に、家族や友人から贈り物を貰ったり、宴を催したりして、盛大に祝うらしいんだ」


「そんな文化があるんですね」


「そうらしいんだよ。と言っても最近では、欧米に感化されて、誕生日パーティーを催す貴族も珍しくないのだけどね。――まあ、といった事情で。樹に、椿子の肖像画を描いて欲しいんだ。……構わないかな?」


「もちろんです。僕なんかの油画でよければいくらでも」


 樹は、なんて素敵な文化なんだろうと、満面の笑みで承諾した。


(……僕にお父ちゃんやお母ちゃんがいたら、誕生日を祝ってくれたのかな)


 そんな、考えても仕方がないことを思いながら、樹は自分の目元を触ったのだった。





「そんな……! 樹はスペイン風邪インフルエンザに罹ってしまったんですか!?」


 樹は朦朧とする意識の中で、梗一郎の悲痛な声を聞いた。


 昨日まではなんともなかった。いて言えば、いつもより少し身体がだるいくらいで。もともと病弱な樹は、またいつもの体調不良かと甘く見ていた。


(だってまさか、自分がスペイン風邪に罹るなんて思わないじゃないか)


 病状は一晩であっという間に重篤化した。


 特効薬などはなく、回復できるかは己の体力次第で、あとは仏に祈るばかりだという。


(僕は、多分、駄目だな)


 自分のことは自分が一番よく分かっている。


 ――早乙女樹は、スペイン風邪で死ぬ。


 樹は、ははっと笑った。高熱に冒され、嘔吐を繰り返し、喉が腫れて呼吸もままならない。もはや喋ることも困難だった。


(……長生きは出来ないだろうと思っていたけれど、まさかこんなに早く死期が訪れるとは)


 恐怖心はなく、ただただ苦しくて、辛くて、滑稽だった。


 お世辞にも、『良い人生だった』とは言えない。


 だが、『人に恵まれた人生』だったとは思う。


(心残りはそんなにない。ただ、椿子さまの肖像画だけは完成させたかったな……)


 生まれた日を祝福される誕生日というもの。


 口には出さなかったけれど、誕生日を祝ってもらえる椿子が羨ましくて、椿子に贈り物をねだられたのだと苦笑する梗一郎に、羨望の気持ちを抱いた。だからこそ――


(完成、させたかったな)


 樹は朦朧とする意識の中、アトリエにぽつんと佇む、未完成の肖像画プレゼントをおもって、ゆっくりと目蓋を閉じたのだった。

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