第32話

「でも、駆だって唯ちゃんが居てくれた方が嬉しいでしょ?」

「……どうしてさ?」

 お母さんに問われて、僕は一瞬返事に困った。

 なぜなら、唯と一緒の家に住むことが完全に嫌とは言い切れないからだ。

 彼女と一つ屋根の下で過ごすのは、僕もちょっと嬉しいのだ。

「え~。たったそれだけ言うのに、随分と時間がかかったね?」

「うるさいなぁ!もう僕、お皿洗うんだから変なこと言わないでよ!!」

 僕は朝食で使った食器類を集めると、シンクへと持って行った。

 シンクの中には、昨夜洗わなかったコップがいくつかあった。

「普段は唯ちゃんに言われないとしないくせに~」

「今日は気がついたの!!」

 お母さんは、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら僕をみている。

 唯は僕の隣に立つと、食器かごに干された茶碗を片付け始めた。

「お母さんが言った事は気にしなくて良いからね?」

「気にしてるのはあんたの方でしょ?」

 意識しすぎている僕とは対照的に、唯は至って普通だった。

 彼女はお母さんが言ってる冗談なんて、いちいち気にしないのだろう。

「あたしは誰が何を言おうと、自分がしたい事をするだけよ」

「唯が今したい事って何?」

 彼女が今したいと考えてる事とは、一体何だろうか?

 恵麻と仲直りする事だとは思うが……

「三人で海に行く事よ」

「やっぱり海の事、諦めてなかったんだね?」

 本来、僕たちは従姉弟妹の三人で海に行くつもりでいた。

 しかし夏休みの直前で唯と恵麻の間であんな事があったせいで、中止になった。

「悪いけどあたし、簡単に諦めたりなんかしないから」

「唯らしいね。その意志の強さは素直に凄いと思うよ」

 唯は一度やると決めた事は、何としてでもやり通そうとする。

 それが彼女の良いところでもあり、同時に面倒くさいところでもあった。

「あんたの事もよ?」

「え?僕の事?」

 彼女は何のことを言ってるのだろうか?僕の何を諦めてないのだろうか?

 唯と僕は既に恋人としてお付き合いしている。

 これ以上、僕に何を求めているのだろうか?


 結局、僕は唯が僕の何を諦めていないのか教えてもらえなかった。

 食器を片付けた後、僕たちはレインの画面を確認した。

「……恵麻はいつでも良いって言ってるね?」

「なら、今から行きましょ?」

 僕と一緒にレインの画面を確認した唯は、言うが早いか椅子から立ち上がった。

 その動作があまりにも迷いが無かったため、僕は思わず大声を出してしまった。

「え?今から!?」

「そうよ。こう言うのは早めに白黒ハッキリさせた方が気持ちが良いわ」

 唯は僕の質問に答えながらも、テキパキと準備を進めた。

 ちょっと待ってくれないかな?そんな事言われてもコッチは準備できてないよ?

「迷惑にならないかな?夕方とかの方が良くない?」

「あたしはイヤよ。夕方までモヤモヤしたままなんて」

 どうやら、唯としては一刻も早くこの状況を解消してしまいたいらしい。

 恵麻と会えない状況というのは、それだけ彼女にとって耐えがたいことなのだろう。

「ちょっと待ってよ!いくら何でも急すぎるよ!!」

「いつでも良いって言ったのは恵麻さんの方でしょ?」

 確かに恵麻は、レインではいつでも良いと言っている。

 しかし、だからといって返信されてすぐに会いに行くなんて……

「そうだけど……」

「それともあんた、恵麻さんに会うのがイヤとか?」

 全く準備が整わない僕を置き去りに、彼女はドンドン出発準備を整える。

 彼女は普段から行動力が高いが、今日は特に高い気がする。

「そんな事は無いよ!僕だって恵麻と仲直りしたいよ!!」

「だったら別に良いじゃない?さ、準備なさい」

 そう言うと唯は、僕にシャツを投げて寄越した。

 新しいシャツは、唯が夏祭り前日に僕と一緒に買いに行った物の一着だ。

「……唯ってあんまり緊張とかしないの?気持ちの準備とかしないの?」

「言っとくけど今あたし、凄く緊張してるわよ?」

 僕には唯が恵麻と会うことを、全然恐れていないように見えていた。

 必ずしも恵麻から良い言葉をかけてもらえるとは限らないからだ。

「でも、このまま恵麻さんと会えなくなるのは絶対にイヤ!」

「……分かったよ。すぐに用意するからちょっと待ってて」

 僕たちは各々の自室で着替えると、玄関で落ち合った。

 僕の手が汗まみれなのは、きっと暑さだけでは無いだろう。


「えっ!?今から来るの!?唯っち強引すぎるよぉ……」

 私は従妹の唯から届いたレインを確認した途端、驚きのあまり軽く飛び上がった。

 私は今、キャミソール姿でとても人に会えるような格好では無いのだ。

「でも、そんなところが唯っちらしいとは思うけどね?」

 私は驚くと同時に、わずかに苦笑していた。

 彼女を振ってから約半月、どうやら立ち直ってくれたようで少し安心した。

「やっぱり駆っちに任せといて正解だったね」

 唯っちがこんなにも早くに立ち直れたのには、きっと従弟の駆が関係している。

 彼は昔から、唯っちのピンチには必ず手を貸してくれる。

 その結果、自分が学年中から白い目で見られようともだ。

「……駆っちにも悪いこと、しちゃったなぁ」

 彼の事を考えると私は少し、寂しいような申し訳ないような気持ちになる。

 傷心の唯っちを彼一人に任せた事もあるが、私の彼に対する気持ちもあるからだ。

「……はっ!?」

 私は掛け時計から流れてきた『夜空に祈りを』で我に返った。

 唯っちは今からそっちに行きますとレインに書いていた。

 つまりボーッとしてる時間なんて、無いと言うことだ。

「急げ!急げ!!」

 私は大急ぎで、二人に会う準備を始めた。

 唯っちとは、ちょっとくらいラフな格好で会っても問題ない。

 しかし駆っちと会うなら、ある程度はちゃんとした格好で会いたい。

「ミスったなぁ……いつでも良い何て言うんじゃなかった」

 私はキャミソールを脱ぎながら、自分の判断の甘さを後悔した。

 唯っちは自分が言った事に嘘偽りが無いように、相手もそうだと思っている。

 普段だったらそこも踏まえた上で時間を指定するが、今回は失念していた。

「まさか、唯っちがこんなに早くに回復するなんて思わなかったからねぇ」

 夏休み前に彼女を振った後、私は数回だけ唯っちを見かけた事がある。

 その時の彼女は、まるで魂の抜け殻のようになってしまっていた。

 思わず声をかけようとした事が、何度もあったくらい唯っちは傷ついていたのだ。

「ああ~、もう!髪もとかしてないのに!!」

 私はとにかく手に付いた順番で二人を迎え入れる準備をした。

 駆っちの家から私の家まで、歩いて二十分くらいしかかからない。

「恵麻、どうしたの?やけに慌ててるけど?」

 私の様子を見たお母さんが尋ねてくるが、答える余裕が無かった。


「……暑い」

 僕と唯は肌を刺すような日差しの中、アスファルトの上を歩いていた。

 日光を吸い込んだ黒いアスファルトの上には、陽炎が漂っていた。

 こんな暑い中で歩き回ったら、熱中症になりそうだ。

「唯、やっぱり夕方とかにした方が良か……」

「イヤ!あたしは今すぐが良いの!!」

 ふちの広い帽子を深々と被った唯は、汗を拭いながら僕に答えた。

 同じ恵麻を好きと言う感情でも唯と僕の間には、違いがあった。

 唯の好きは、今すぐにでも会いに行きたく成るような好きなのだ。

「会ってくれるって言ったんだから、恵麻だった逃げたりなんかしな……」

「それでもイヤなの!!」

 唯は僕の提案を頑として聞き入れようとしない。

 それだけ彼女の恵麻に対する気持ちが、未だに強いのだと思うと複雑だった。

 唯は僕が自分から距離をとったら、同じようにしてくれるのだろうか?

「返事をしていきなり押しかけられたら、恵麻だった迷惑かも知れ……」

「そんなの知らないわよ!恵麻さんはいつでも良いって言ったの!!」

 ダメだ。今の唯を説得する術なんて、僕には思いつかない。

 そして僕は考えるのをやめた。

「ほら!見えてきたわよ!!頑張りなさい」

「……うん」

 僕が唯に言われて顔を上げると、懐かしい建物が見えてきた。

 周囲の住宅とは明らかに異質な雰囲気を放つ、恵麻の家だ。

 誰がデザインしたのか知らないが、僕はあの家を知恵の輪のようだと思っている。

「……うわぁ……相変わらず凄い形してるなぁ……」

「仕方ないでしょ?叔父さんは芸大の先生なんだから」

「え!?アレって恵麻のお父さんがデザインしたの!!?」

 いきなり爆弾発言が飛び出して、機能停止していた僕の脳が覚醒した。

 あの奇妙奇天烈な建物は、恵麻のお父さんが作ったのか!?

「原案は叔父さんで、それを元に建築デザイナーが作ったんですって」

「あの家にそんな理由があったなんて……」

「建築基準法のせいでデザインを少し変えたらしいわよ?」

 僕は、唯から恵麻の家についてあれこれ教えられながら歩いた。

 あの家に入る人は、否が応でも目立つ事になってしまう。

 あまり目立つのが好きじゃない僕としては、なかなか入りにくい家だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る