第26話
立ち上がった僕は、財布をナップサックに入れると外に出た。
外は熱風が吹いていたが、待っていたら時間がなくなってしまう。
「……夏祭りは六時からか……」
時計を見ると、十時になろうとしていた。
とりあえず今は、髪を切ってこよう。
「……美容院っていくらぐらいなんだろう?」
そんな独り言をつぶやきながら、僕は適当な美容院を探して歩き出した。
僕が普段利用するのは、いわゆる床屋で美容院なんて行ったこともない。
「……あちこちにあるけど、どこが良いんだろう?」
僕はスマホの画面で、近所にある美容院を検索した。
普段は意識せずに通り過ぎるだけだから、こんなに乱立していると知って驚いた。
「良く分かんないから、一番評判が良いところにしよう」
僕は、レビュー件数が一番多い店を目指して歩き出した。
髪を切るだけでこんなに緊張するなんて、人生で初の経験だ。
「え~っと、この辺だと思うんだけど……」
十分後、僕はスマホの画面を頼りに住み慣れた町をさまよっていた。
地元で迷子になるなんて、変な話だと思うが僕は至って真面目だ。
「……あっ!あの店……だよね……?」
僕が発見した店は大きなガラス窓で、店内が丸見えになっている店だった。
中ではおしゃれな美容師さんが、もっとおしゃれな女の人の髪をいじっていた。
「……どうしよう……?」
僕は店に入るべきか、店を変えるべきか立ち尽くしていた。
僕みたいなのがこんな店に入って、笑われはしないだろうか?
「……やっぱり、別の店にしようかな?」
僕は別世界のような美容室の中の光景を見て、ひるんだ。
きっとあそこは、選ばれた人種だけが入れる特別な空間なのだろうと思った。
「うん!僕にはレベルが高すぎる!!」
僕は踵を返して、別の店を探そうとした。
しかし、逃げようとする僕を呼び止める心の声が聞こえた。
「でも、それで本当に良いと思う?唯の為に変わりたいんじゃないの?」
僕は店に背を向けたまま、心の中で葛藤していた。
美容室から逃げたい自分と、変わるべきだと叫ぶ自分。
「……」
ジリジリと太陽が肌を焼く中、僕は自分と戦っていた。
「ありがとうございました~」
俺は常連客を見送ると、暇な時間を利用して後始末をすることにした。
今日は特に暑いから、この時間帯は客もまばらだ。
そんな時、カランコロンと言うドアベルの音が来客を告げた。
「いらっしゃいませ~」
俺が客の方を見ると、十五歳くらいの男の子が入り口に立ち尽くしている。
男の子はとても緊張している様子で、この手の店に慣れてないのが見て取れた。
「こちらへどうぞ」
俺は椅子を引いて、男の子に奥へ進むように促した。
男の子は右手と右足を同時に出しながら、こっちへと歩いてきた。
「どうぞ」
俺のジェスチャーで、男の子はロボットのような動作で着席した。
これは「どんな風にしますか?」と訊かない方が良いだろう。
「夏祭りに行くんですか?」
「え!?あの……幼なじみと……」
俺の問いに、男の子は裏返った声でそれだけ答えた。
だが、その返事で大体の事情は飲み込めた。
男が夏祭りのために、勇気を出してめかし込む理由なんて一つしかないからだ。
「おまかせコースって言うのもありますが?」
「え!?あ……はい!それで……お願いします!!」
これは俺の勘だが、この男の子はヘアスタイルに対する知識があまりない。
どんな風にしますか?と訊いても相手を迷わせるだけだと判断した。
「この中から気に入ったのはありますか?」
「えっと……それじゃあ……一番右ので」
男の子は、俺が見せた四つの見本から一つを選んだ。
相手は学生だろうから、校則違反になるようなスタイルは薦めなかった。
「かしこまりました」
俺は手早く男の子の髪を霧吹きで湿らせると、蒸しタオルで軽く拭いた。
カチコチに固まった男の子の緊張をほぐす方法は、何かないだろうか?
「お客さん、学生さん?」
「あ!はい!!」
俺は無難に、男の子に学校の話題を振ってみることにした。
見立ての通り、男の子は学生のようだ。
学校での話題と言ったら、どの辺から攻めるのがベターかな?
「井上高校の学生さん?」
「いえ。聖フランシーヌです」
「え?聖フランシーヌ?」
俺は男の子の口から出てきた学校名に、少し驚いた。
聖フランシーヌと言えば、この辺りでもかなりレベルが高い学校だからだ。
「お客さん、頭良いんだね?」
「かなり無理しました。普段は全然で……」
少しだけ男の子の表情が和らいだのを見て、俺はこの話題で正解だと確信した。
美容師とは、ただ単に髪を切れば良いだけの仕事じゃない。
「じゃあ、夏休みの宿題は大変なんじゃない?」
「唯……幼なじみが助けてくれるんです」
なるほど。幼なじみと同じ高校に入学したのか。
で、多分幼なじみとつい最近付き合い始めたのだろう。
「幼なじみは勉強、得意なの?」
「彼女は僕とは違って、何でも出来るんです。僕はいつも助けてもらうんです」
男の子は苦笑しながら幼なじみ、つまり彼女について話してくれた。
この子が、勇気を振り絞ってこの店に来たのはその娘のためだろう。
俺もこの子くらいの年に、初めて恋人が出来たっけ?
「こんな感じはどうですか?」
「……わぁ。すごい」
男の子は俺が見せた鏡越しの自分の後ろ姿に、感嘆の声を出した。
スタンダードな髪型をベースに、埋もれないように細部で差を出してみた。
我ながら良い出来映えだと思ったが、男の子にも満足してもらえたようだ。
「シャンプーで痒くなった事はありますか?」
「いえ。ありません」
俺は整えた男の子の髪を念入りに洗うと、眉等も整えた。
この子が、彼女の隣で恥ずかしくないようにしてやろうと思った。
「夏祭りに行くんだったら、ちゃんと彼女さんの手を引いてあげてね?」
「はい!」
二時間前に店の入り口で佇んでいた男の子はもう居なかった。
俺が魔法をかけたからだ。
「お姉さん、ありがとう!」
「彼女さんから手を放しちゃダメだよ!?」
男の子は背筋を伸ばして、暑い店外へと出て行った。
「……」
「……」
美容院から帰り昼食を摂っている僕を、お母さんと唯がチラチラ見ている。
僕は良い感じに決まったと思ったが、変だっただろうか?
「何?」
「……いや、何でもないわ」
唯は僕が問うと、僕から冷やし中華へと視線を移した。
そしてそのまま、ツルツルと麺をすすっている。
「……」
「美容院、行ってきたの?」
僕が唯からお母さんへと視線を動かすと、お母さんからは反応が返ってきた。
やっぱり、この髪型が気になるらしい。
「そうだけど、変?」
「いや、格好良いと思うけど?」
お母さんは、キュウリを口に運びながらそう答えてくれた。
変だから見ていたのではなく、僕が気合いの入った髪型だから見ていたらしい。
「どこの美容院に行ってきたの?」
「あそこ。ほら、駅からちょっと行ったところにある……」
僕は簡単に、自分が行ってきた美容院について説明した。
お店の名前を言えば良いのだろうが、良く見てこなかったのだ。
「RXに行ってきたの?入りにくかったでしょ?」
「……うん。まあ……」
あの店、RXとか言うのか。
確かにRXはいかにもおしゃれな人用の店と言う感じで、とても入りにくかった。
「……へぇ~~」
「何?その、へぇ~~って」
お母さんは何に対して、へぇ~~と言っているのだろうか?
と言うか、それはどう言う意味のへぇ~~なのだろうか?
「別に。純粋ににすごいなぁって思っただけだけど?」
「そう?」
お母さんが感心するのも、無理ない事かも知れない。
僕が髪を切ると言ったら、近所の安い床屋だからだ。
「伸びちゃうよ?」
「……うん」
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