第23話

「……まったく、調子狂っちゃうな」

 僕は汗を吸ったシャツやズボンを脱ぎながら、一人で愚痴った。

 ズボンを脱ぐと、僕のアレがパンツを押し上げているのを確認できた。

「唯はご飯を食べてから、帰るのかな?」

 唯が家に居るだけで、僕は普段の僕ではなくなってしまう。

 彼女の存在が僕の日常をかき回すだけでは無く、僕自身が彼女を意識するからだ。

「もう、変な汗かいちゃったよ!」

 昔はこんな事は無かった。唯がこの家に来る事は、珍しくなかった。

 その時の僕たちは、ここまで相手の事を意識したりしなかった。

「……この、匂いは……」

 僕はその時、気づいた。気づいてしまったのだ。

 脱衣場には、唯の残り香が漂っていたことに。

「……」

 僕は全裸のまま、その場にしばし立ち尽くしていた。

 鼻孔から入った幼なじみの匂いに、僕は全神経を集中させていたからだ。

「……ハッ!?僕は何を!?」

 時間にして、ほんの数分だっただろう。

 僕が我に返ると僕の陰茎は、はち切れんばかりに充血していた。

「早く入ろう!ここに居ちゃマズい!!」

 僕はお急ぎで浴室の扉を開け、中へと入ろうとした。

 しかし扉を開けた途端、僕は更に追い詰められる事となってしまう。

「……ぷわっ!?」

 浴室の中には、女の子の匂いが充満していたのだ。

 脱衣場の残り香なんて、比にならないくらいのフェロモンだった。

「……あ……ああ……もう……ダメだ……」

 もう、僕には自分の欲望に抗う術が無かった。

 僕は浴室で、自分の息子が求めるままに手を動かした。

「……僕って最低だ」

 脱力感の中で白く汚れた手を見て、僕はそうつぶやいた。

 唯は僕にとって、あまりにも刺激が強いのだ。

「……」

「ああ、駆。スッキリ……じゃなくってサッパリした?」

 シャワーを終えた僕を待っていたのは、デリカシーのかけらも無い一言だった。

 やっぱり、お母さんは僕の唯に対する気持ちを弄んでいるのだ。


「ああ、そうだ。駆、客間を片付けてくれない?」

「え?客間?」

 この家には、一応客間と呼ばれる部屋がある。

 読んで字の如く、来客が泊まるための部屋だが半分くらい倉庫と化している。

「そう。唯ちゃん、今日からしばらく家に泊まるから」

「え!?唯が家に泊まる!!?聞いてないよそんなの!!」

 僕は、こんなのは今日だけだと思って安心していたのだ。

 それなのに、しばらく泊まるだなんて完全に寝耳に水だ。

「そう?言ってなかったっけ?まあそんなのは、どうでも良いじゃん」

「……どうでも良いって……」

 僕は断じて、唯の事が嫌いなのではない。

 むしろ逆で、僕は彼女を異性として異常に意識してしまっているのだ。

「何?唯ちゃんと一緒は嫌?」

「……そうじゃあ……ないけど……」

 誰だって、好きな異性と一つ屋根の下で寝起きできたらテンションが上がるだろう。

 ただ問題なのは、僕がそれを制御できないくらい彼女を好きだと言う点だ。

「どうかしたんですか?」

「ん?今から駆に唯ちゃんの部屋を掃除してもらおうと思ってね」

 僕たちのやりとりを聞きつけた唯が、リビングからやってきた。

 ラフな部屋着に着替えた彼女からは、シャンプーの匂いが漂ってきた。

「いえ、わたしが自分でしますよ」

「でも唯ちゃんじゃ、どこにしまったら良いか分からないでしょ?」

 客間にはオフシーズンのコタツだとか、五月人形だとかが置いてある。

 それをどこにしまえば良いか、唯にはきっと分からないだろう。

「それくらい何とか出来ま……」

「僕がやるよ!!」

 僕は叫ぶようにそう言うと、客間へと逃げた。

 どうして急に、こんな気持ちにならなければいけないのだろうか?

 ついこの間まで、僕は彼女に割と普通に接していたはずだったのに。

「……どうかしたんですか?」

「唯ちゃんは罪な女だね?」

「え?」

 お母さんに言われて、唯はキョトンとしている。

 そりゃ、あんな説明で理解しろという方がおかしい。


「……はぁ……」

 僕は客間へと逃げ込むと、座り込んでため息を吐いた。

 胸が苦しい、頭が痛い、身体が酸素を求めていた。

「……落ち着け……落ち着け……」

 僕は自分に何度もそう言い聞かせた。

 大丈夫だ。相手は気心の知れた相手だし、お母さんだって家に居る。

「よしっ!」

 わずかに落ち着きを取り戻した僕は、気合いとともに立ち上がった。

 この部屋を片付けなくては、唯が泊まれないのだ。

「しかし、散らかった部屋だなぁ。何年も使ってない物もあるし」

 僕がぐるりと見回すと、その部屋は客間だなんて名ばかりの物置だった。

 よく分からない木彫りの熊だとか、大きな招き猫だとかが雑然と置いてある。

「この小さい布は、一体何なんだ?」

 僕は箱にしまってあった、ハンカチくらいの布を手に取った。

 布には、異国風の建物が描かれていたが何かのお土産だろうか?

「……どこの建物だろう?」

「ドイツじゃないかしら?フォイラーの織物だし」

「のわぁっ!?」

 僕は突然後ろから聞こえた声に、心臓が止まるかと思った。

 振り向けば、髪をまとめた唯が立って居るではないか。

「ゆ、唯!?」

「何よ。人の顔見るなり変な声出しちゃって。失礼ね」

 僕の反応が気に障ったのか。唯は不機嫌そうにこっちを睨んでいる。

 そんな顔されたって、僕だってただ驚いただけなんだけど?

「ゴ、ゴメン。いきなり後ろから声がしたから驚いただけなんだ」

「……まあ、良いわ」

 口ではそう言っているが、唯は依然として不機嫌な顔をしている。

 何か話題をそらした方が良いだろうか?

「そう言えば、この布をドイツのお土産だって言ったよね?」

「……そうよ。多分、お父さんたちがドイツ旅行した時に買ったんだと思うわ」

 僕のお母さんと唯のお父さんは、姉弟なのだ。

 だから、一緒に旅行に行くことも何回かある。

「これはどこにしまえば良いの?」

 唯は、手近な場所に置いてあったプリンターを指さした。


「僕が持つよ!重いから!!」

 僕は、唯からプリンターを奪うようにして持ち上げた。

 このプリンターは、お母さんの仕事道具で使わないときはここに仕舞っている。

「……もしかしてあんた、あたしに居て欲しくないとか?」

「違うよ。そんなんじゃないよ」

 でも、唯がそんな風に感じるのもうなずける。

 さっきから僕は、彼女を自分からできるだけ遠ざけようとしているからだ。

「じゃあ、何であたしから逃げるの?」

「……」

 このどん詰まりの部屋から出るには、唯の脇を通り抜けるしかない。

 つまり、もう逃げられないと言うわけだ。

「あたしの事、苦手ならそう言ってくれて良いわよ?」

「違うよ!ただ……」

 この期に及んで、僕は自分の気持ちを言うべきか迷っていた。

 しかし、ちゃんと伝えない事には前にも後ろにも進めない。

「ただ?」

「……ただ、僕が君のことを……好き……だから……」

 僕は絞り出すように何とかそれだけ言った。

 クーラーの音と蝉の鳴き声が、やけに大きく聞こえた気がした。

「それ、本当?」

「……」

 僕は口を閉じたまま、二度頷いた。

 腕に抱えたプリンターの重みだけが現実感を演出していた。

「変な男ね?あたしだったら好きな相手から逃げたりなんかしないわよ?」

「……そうだね。唯はいつでも自分の気持ちに正直だったもんね」

 唯は、変な言い訳をして自分の気持ちから逃げたりなんかしない。

 自分なんかとか、どうせとかそんな言葉は一切口にしない。

「だって、気持ちを伝えないまま終わったら悲しいじゃない?」

「恵麻にも気持ちを伝えたの?」

 僕は思いきって、ずっと尋ねたかった疑問をぶつけた。

 あの日、唯と恵麻の間に何があったのだろうか?

「そう言えば、まだあんたに言ってなかったわね?プリンター、置いたら?」

「うん」

 僕はだるくなった腕からプリンターを置いた。

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