第11話

「……枕草子の作者を答えなさい?これって古典って言うより歴史じゃ?」

 そんなことを言いながら、僕は少しずつでも問題を解いていった。

 唯に活を入れられたせいか、徐々に集中力を取り戻しつつあった。

「ええ~っと、確か清少納言が作者だったよね?」

 僕はノートに答えを書き込み、次の問題へと目を落とした。

 問題は『枕草子が作られた時代は?』とか『ジャンルは?』とかだった。

「……ジャンル……何だろう?」

 僕は正直、枕草子の内容を全然理解していない。

 要するに、理解しないまま基礎的な情報を暗記しているだけだった。

「……小説?」

「随筆よ!小説は源氏物語の方よ!!」

「わっ!唯!?」

 僕が驚いて顔を上げると、パジャマ姿の唯が立っていた。

 彼女はここに居ると言うことは、もうそんなに時間が経過していたのか。

「枕草子って言うのは、作者の清少納言が実際に体験したり思ったことを書いてるの」

「つまり日記みたいなもの?」

 唯は僕の隣に座ると、僕のノートや教科書をめくった。

 僕がどれくらいちゃんと勉強してたのか、確かめてるのだろう。

「……ノルマは達成したみたいね?本当はもうちょっと進めててほしかったけど」

「う、うん」

 唯が隣に座ると同時に、彼女の髪からシャンプーの匂いが漂ってきた。

 その匂いを嗅いだ途端、僕の頭の中から清少納言は消え唯だけになってしまった。

「で、枕草子の話だけど日記とはちょっと違って……ちょっと、どうしたの?」

「……えっ!?あ、イヤ!何でもない!!」

 僕は間近で嗅いだ髪の匂いのせいで、脳が完全にフリーズしていた。

 一切の思考する能力が奪われ、全てのリソースが目の前の女性に割かれていた。

「僕!シャワー浴びてくるね!?」

「え?別に良いけど……あんたなんか変よ?」

 僕は着替えを抱えると、逃げるようにその場から立ち去った。

 これ以上あの人の隣に居たら、僕はきっと本当に変になってしまうに違いない。

 その証拠に、僕の海綿体は血液を吸いパンパンに膨らもうとしていた。

「……あ~、ヤバかった……」

 脱衣場に避難した僕は、安堵のため息を吐いた。

 しかし脱衣場にこもった匂いが鼻孔に入った瞬間、僕は再びピンチに陥った。


 僕の土日は、驚くほどに早く流れていってしまった。

 この二、三日の間で僕は何度もドギマギすることとなった。

「……よし!これなら試験に受かりそうね!?」

「そう!?本当に!!?」

 日曜の夜に唯が用意した模試の結果を見て、僕はちょっと安心した。

 これなら、唯と恵麻と楽しい夏休みの思い出を作れるからだ。

「ええ、本当よ。ただし、あたしが用意した範囲と同じならだけどね」

「不安になること、言わないでよ」

 唯が作ってくれた問題は、ヤマを張った部分がある。

 短期間で勉強するには、試験範囲が広すぎたからだ。

「まあ、先生たちもあんまり変な問題は出さないと思うわよ?」

「よぉ~~し!絶対に受かるぞぉ~~!!」

 金曜日の夜、僕には海に行く意味が見いだせなかった。

 自分なんかが海に行ったって、別に楽しくなんかないだろうと思ってたのだ。

 しかし今の僕には、海に行きたいという強い意志があった。

「……何か、あんた土曜日から急にやる気になったわよね?」

「僕も唯たちと海に行きたいからね!絶対に!!」

 海に行けば、ひょっとしたら唯の水着が見られるかもしれない。

 その為には、何としてでも補習を回避しなくてはいけない。

「まあ、やる気があるのは良いことだと思うわ」

「僕、明日は早めに学校に行って復習しようと思うんだ!!」

 正直、勉強なんて好きじゃない。だが、その先に何か御褒美があるなら話は別だ。

 現金な話だが、僕はこの人と海に行くためだったら勉強なんて容易いものだ。

「……そう?じゃあ、今日はこのくらいにしとくわね?」

「うん!お休み!!」

 僕は唯の背中を見送ると、畳の上に布団を敷いて寝転がった。

 明日はやってやる!今の僕は阿修羅すら凌駕する存在だ!!

「……何だったのかしら?あの、やる気?」

 唯には、駆のかつてないほどのモチベーションの高さが理解できなかった。

 まさか、自分が彼を駆り立てているとは思ってもみなかったのだ。

「でもまあ、あいつのあんな顔を見るのは久しぶりかも」

 唯は駆のやる気に満ちた顔を見て、少し嬉しくなった。

 高校の合格者発表で見た彼は覇気を失い、まるで別人のようだった。

 それがまるで心が蘇ったかのように、やる気に満ちているのだ。


 翌日、月曜日。僕は通学電車に揺られながら、問題集を開いていた。

 隣には唯が、その隣には恵麻が座っていたが二人とも僕に話しかけない。

「何か駆っち、いつになく真剣だねぇ?」

「あいつ、金曜の夜からあんな感じなんですよ」

 恵麻が駆を見たのは、金曜日に小走りで廊下を歩くのを見かけたのが最後だ。

 あの時、駆は唯に連れられて駅の方へと急いでいた。

「ほうほう、金曜の”夜”から……ねぇ?」

「……はい」

 恵麻は唯が駆に何をしたか、おおよその見当がこの時についた。

 唯と駆はこの土日の間、勉強のために一緒に寝起きしたのだ。

「唯っちが何か言ったりしたの?」

「いいえ、あたしはいつも通りに接したつもりですけど……」

 唯はいつも通りに接したと言っている。

 つまり、一緒に寝泊まりすることも唯にとって特筆すべき事柄ではないのだ。

「唯っちの気持ちが駆っちに届いたんじゃないかな?」

「そういえばあたしに『なんで僕の勉強を見てくれるの?』みたいなことを……」

 駆は唯から、恵麻との仲を取り持つように脅されている。

 その脅迫犯が、自分に親身になってくれる理由が彼には分かっていないのだ。

「駆っちはそんなことを言ったの?」

「はい。だから『あたしがあんたと海に行きたいからよ』って言ってやったんです」

 唯のその言葉が、駆の中で眠っていた何かに火をつけた。

 その日以来、駆はまるで目が覚めたかのように勉強に打ち込んだ。

「……つまり、駆っちも唯っちと海に行きたいと思ったのかなぁ?」

「そういうことでしょうか?でも、それまで全然やる気がなかったんですよ?」

 唯は自分が駆に火をつけたと、全く自覚していなかった。

 駆には風呂上がりの彼女の髪の匂いは、効果てきめんだったのだ。

「でもまぁ、これで駆っちも補習にならずにすみそうだねぇ?」

「無いとは思いますけど、恵麻さんも補習なんかなっちゃダメですからね?」

 今日から一週間、テスト期間が始まった。

 唯と恵麻が何か話しているが、そんなのは今はどうでも良いことだ。

 今の僕がすべきこと、それは一点でも多くの点数を稼ぐことだけだ。

 大切な夏休みを、ゴリラみたいな顔をした先生の補習に奪われてたまるか!

 僕はゴリラなんかより、唯や恵麻の水着が見たいんだ!!

 絶対に負けられない戦いが、始まろうとしていた。


 そして、駅に着き、学校に着き、教室の前に来た。

「……じゃあ、頑張りなさいよ?」

「うん!僕、絶対に受かるよ!!唯も頑張って」

 教室の前で、僕は唯に最後の激励をされた。

 ややつり上がった大きな目が、僕をちょっとだけ心配そうに見ている。

 僕はその人を安心させるために、誓うように宣言した。

「あたしは最初から問題ないわよ。問題はあんただけよ」

「それもそうだね。唯は僕と違って、普段から怠けたりしないもんね」

 唯は僕とは違って努力家だ。彼女は勉強でもスポーツでも家事でもいつも真剣だ。

 もちろん、僕に勉強を教えているときだって真剣だったに違いない。

「あたしが教えてあげたんだから、落ちたりしたら承知しないんだからね!?」

「うん!唯の好意を無駄になんてしないよ」

 そのとき、予鈴が鳴った。戦いの火蓋が切られようとしているのだ。

 僕は教室から出て行く唯を見送ると、教室の割り当てられた席へと着いた。

 試験の時は普段自分が使ってる席では無く、名前順に席に座るのがこの学校だ。

「よーし、全員筆記用具以外は全部カバンの中に片付けるように!」

 担任の先生が、紙袋から試験問題と答案用紙を取り出しながら注意した。

 僕は鼻から深く息を吸い込むと、机の上をシャーペンと消しゴムだけにした。

「試験問題と解答用紙は全員に行き渡ったか?」

 先生は一番後ろの席の子から、余った試験問題と解答用紙を回収した。

 そして、教壇に立つとダーバーズウオッチを見ながら言った。

「よーい……はじめっ!」

 その声と同時に、僕を含めた全ての生徒が試験問題を表にした。

 駆!負けられない!!負けられないぞ!!!


 試験週間はあっという間に過ぎ去り、真夏日が当たり前な季節になった。

 まるで風物詩のように、連日熱中症患者の人数が報道されるようになった。

「ではでは、飲み物は持ったかなぁ!?」

「ええ、持ちましたよ?あんたもさっさと持ちなさいよ!誰の為だと思ってるの!?」

「分かってるよ!」

 僕と唯と恵麻は、ファーストフード店で小さな祝勝会を開いていた。

 恵麻はシェイクを、唯はアイスティーを、僕はジンジャーエールを持っていた。

「それでは……駆っちおめでとう!!」

 恵麻の音頭で、僕たちはプラスチックの器を軽くぶつけ合った。

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