第10話

「おじさんとおばさんはまだ、海外?」

「ええ、お父さんはマカオに、お母さんはインドに居るらしいわよ」

 唯のご両親は海外を拠点にして働いていて、家には滅多に帰らないらしい。

 だから、子供の頃は僕のお母さんや恵麻のご両親が交代で面倒を見ていた。

「……」

「どうしたの?早く入りなさいよ」

 玄関の戸口でためらっている僕を、唯が不思議そうに見ている。

 この家に入ると言うことは、唯と二人っきりになるという意味だ。

 本当に入っても良いものか、ためらうのが普通でしょ?

「……お邪魔します」

 僕は数秒間、玄関先に突っ立っていたが意を決して家に入った。

 デートプランを説明するときにいつも来る家なのに、今日は妙に入りづらかった。

「もう七時なのに、まだ明るいわね?」

「……うん」

 家に通された僕は、借りてきた猫のようにおとなしく座っていた。

 座布団の上に正座して、まるで置物のように微動だにしなかった。

「何してるの?さっさと勉強道具出しなさいよ」

「え?あ、うん」

 僕は自分が勉強するためにこの家に来たのだということを、完全に忘れていた。

 大急ぎでカバンから教科書やノートを引っ張りだし、ちゃぶ台に広げた。

「あたし、夕飯の支度してるからその間で今日の復習でもしときなさい」

「……はい!」

 僕は緊張のあまり、思わず敬語で返事をしてしまった。

 これじゃまるで、何かを期待してるみたいじゃないか!?

「何で敬語なの?」

「ううん!何でもありま……ないよ!?」

 唯が変な顔でこっちを見ていたが、僕には取り繕う余裕なんて微塵もなかった。

 一生懸命、教科書に書かれていることに集中しようとしたが何も頭に入らない。

「け、け、ける、ける、けれ……」

 必死に古典の教科書に書かれていることを音読するが、完全に意味不明だ。

 元から古典が苦手だと言うのもあるが、この状況で集中しろと言う方が無理だ。

「……僕、こんなので本当に試験大丈夫かな?」

 畳の上に大の字で倒れ込んだ僕の鼻に、カレーの良い匂いが入ってきた。

 なるほど、時間的に昨日から用意していたのだろう。


 両親が家を空けがちなせいか、唯は自立心の強い女性に育った。

 勉強も家事もスポーツもこなす、僕から見たら完璧超人になった。

「その上、かわいいんだもんな……」

 僕は家事はもちろん、スポーツも得意じゃないし勉強だってこの通りだ。

 見た目だって、お世辞にも良いとは言えない冴えないオタク男子だ。

 僕と唯が並んで歩いていたら、さぞ釣り合わない男女に見えているだろう。

「……まあ、そもそも唯は恵麻が好きなんだけどね」

 なんとなく、勝手にセンチな気分になってしまった僕は身体を起こした。

 僕と唯が釣り合わなくても、そんなのは全くどうでも良いことだ。

 なぜなら、唯の気持ちは僕なんかにこれっぽっちも向いてないからだ。

「大人しく勉強しよう……」

 誰かに何か言われたわけでもないのに、僕の気持ちは妙に落ち込んでいた。

 諦めと寂しさが、少しずつ僕の心を塗りつぶしていくのが分かった。

「そもそも勉強なんかしたって、こんなの何の意味もないのに」

「何、勝手に諦めてんの?あんた」

「うわ!?唯!!」

 僕の後ろから、唯の声がしたものだから心臓が止まるかと思った。

 まさかさっきの独り言、聞かれてたりしないよね?

「夕飯の支度が出来たわよ?こっちに来なさいな」

「う、うん!」

 僕はごまかすように教科書を閉じると、そそくさと唯の方へと小走りで向かった。

 夕飯は僕が思っていたように、カレーライスだった。ただし、キーマカレーの。

「わぁ!カレーだ!!」

「何、カレーくらいではしゃいでるの?手は洗ったの?」

 僕は大急ぎで手を洗うと、わざとらしく喜びながら席に座った。

 唯の家は古風な家だが、食堂はフローリングでテーブルが置いてあった。

「いっただきま~す!」

「はい、いただきます」

 僕はさっきまで抱いていたブルーな感情を振り切るように、食事に手をつけた。

 唯が作ってくれたキーマカレーとサラダは、なんだか暖かい味がした。

「このカレー、おいしいね!?」

「そう?なら、良かったわ」

 僕は、さっきの独り言を聞かれてないことを祈りながらスプーンを動かした。

「ところで、さっき『勉強なんか、意味がない』みたいなことを言ってたわね?」


 しかし、現実は非情だった。唯にはバッチリ聞かれていた。

「え?あ、その……」

「どういうことか、詳しく聞かせてくれるわよね?」

 唯は箸を動かしながらでも、僕の表情をしっかり見てくる。

 下手な言い訳しても、これは自分が不利になるだけだと僕は思った。

「……唯は僕が海に行く意味、あると思う?」

「はぁ?あるからこうして勉強を教えてるんでしょ?」

 唯の茶色の瞳が、僕の目のじっと見つめている。

 その目は、まるで心の内まで見透かそうとしているようだ。

「それは、恵麻が三人一緒に行こうって言ったからでしょ?」

「……何が言いたいのかしら?どうして恵麻さんが関係あるのかしら?」

 唯の箸が止まった。それと同時に、彼女の圧が一際強くなった気がした。

 まるで猛獣か何かに睨まれてるような気分だった。呼吸しにくい感じがした。

「だって、唯は恵麻が居れば良いんでしょ?僕はついでなんでしょ?」

「……そう。あんたはそういうことを言う訳ね?」

 唯のその目を見たとき、僕の呼吸が自然と深くなった。

 まるで僕の周りだけ空気が薄くなったような、そんな気分だった。

「唯は恵麻が好きなんでしょ?恵麻のために僕を連れて行こうとしてるんでしょ?」

「あんた、何か勘違いしてない?あたし、そんな為にここまでしないわよ?」

 僕は唯が僕の勉強の面倒を見てくれるのは、全て恵麻のためだと思っていた。

 恵麻が三人で行こうと言ったから、その望みを叶えようとしているのだと。

「え?じゃあ、どうして?」

「あたしは恵麻さんを好きだけど、あんたも好きだからよ」

 唯は、さも当然のように僕にそう言ってのけた。

 彼女は恵麻の為ではなく、自分のために僕を海に連れて行こうとしているのだ。

「え?え?」

「分かったらバカなことを考えるより、点を取ることを考えなさい」

 そう言うと唯は自分の食器を持って、シンクへと向かって歩き出した。

 僕は、しばし呆然と彼女の背中を見つめているしか出来なかった。

「何してるの?さっさと食べなさい!せっかく作ったのに」

「え?あ、ゴメン」

 僕は冷めてしまったカレーライスを、急いで胃袋へとかき込んだ。

 冷えてしまった料理はおいしくなかったが、僕にはそんなのはどうでも良かった。

 僕の頭の中は、唯がさっき言った言葉で埋め尽くされていたからだ。


 夕飯を終えてから、僕はずっと考えていた。

「あたしは恵麻さんを好きだけど、あんたもすきだからよ」

 彼女は夕飯の時に、僕にそう言った。さも当然のように。

 あれは一体、どういう意味だったのだろうか?

「……ちょっと!聞いてるの!!?」

「えっ!?あ、ゴメン!何だったっけ?」

 僕はさっきの言葉が気になって、目の前に広げられた教科書が全く見えていなかった。 夕飯を終わってから、僕は唯からお座敷で勉強を見てもらっていたのだ。

「何だっけじゃないわよ!ここは連用形だから活用が間違ってるって言ってるのよ!」

「……そうだったね」

 僕は、自分の教科書に書かれた古典の問題に苦戦していた。

 元から意味不明な暗号文にしか見えない古文なのに、僕は集中力まで欠いていた。

「あんたさっきから上の空で、勉強する気あるの!?」

「あるよ!……一応」

 唯がここまで真剣に僕に勉強を教えるのは、一緒に海に行くためだ。

 彼女は恵麻も僕も好きだから、三人一緒に行きたいと言っているのだ。

「一応も仁王もないわよ!もし補習になったら、承知しないんだからね!!?」

「分かってる、分かってるから!!」

 しかし、考えてみれば僕の今の感情も変だ。

 僕は唯ではなく、恵麻と海に行ければそれで良いはずなのだ。

 それなのに、どうして唯が僕をどんな風に思っているのかを気にしているのだろう?

「……アイタッ!叩くこと無いじゃないか!?」

「さっきからあんたが全然集中しないのがいけないんでしょうが!!」

 僕は、唯の拳骨を食らった脳天をさすりながら抗議した。

 確かに勉強に身が入らない僕が悪いが、暴力はいかんでしょ?

「あ~、もう!イライラしてきた!!」

「唯、何をするの?」

 急に唯が立ち上がったから、僕は思わず何かされるのかと身構えてしまった。

 彼女に武術の心得があるか知らないが、例えあっても驚かない。

「シャワー浴びてくるのよ!その間に1ページは終わらせなさいよ!?」

「……はい」

 唯はドスドスと音を立てながら廊下を歩いて、行ってしまった。

 残された僕は、しばし黙って障子を見つめていたがやがて教科書へと向き直った。

 最低でも1ページは終わらせないと、本当に何かされかねない。

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