第9話

「村瀬君、大坪さんって人が呼んでるよ?」

「え?大坪さん?どっちのだろう?」

 クラスの女子が僕の名字を呼んだ。村瀬と言うのは、僕の名字だ。

 しかし大坪と言われても、僕にはどっちの唯か恵麻か区別できなかった。

 実は唯も恵麻も名字は同じ大坪だからだ。

「……迎えに来たわよ?早く支度なさい」

「ああ、やっぱり唯の方だったね」

 しかし僕はこの状況で尋ねてくる大坪さんは十中八九、唯の方だと思った。

 唯は昼休みに、今日から僕の勉強を見ると言っていたからだ。

「グズグズしないの!電車が来ちゃうでしょ!?」

「ゴメン!すぐに用意するよ!!」

 僕は教科書やノートなどの勉強道具を、カバンに大急ぎで入れた。

 そしてそのまま、唯のあとを追うように小走りで教室から出た。

「……村瀬君と大坪さんって付き合ってるのかな?」

 唯から駆を呼び出すよう頼まれた横山は、二人を見てそう思った。

 しかし、教室に残っていた男子も女子も彼女の疑問に答えられなかった。

「唯!なんで今日はこんなに急いでるの!?電車はまだだよ!!?」

「それは普通列車でしょ!?あたしは快速列車に乗りたいの!!」

 校門から出た僕たちは、無我夢中で駅へと走っていた。

 唯について行くだけで精一杯の僕とは違い、唯は美しいフォームで走っていた。

「そんな……一分一秒を……争う訳じゃ……」

「あんた何言ってんのよ!一分一秒を争うのよ!!」

 僕はこの時、息も絶え絶えで会話する余裕も残っていなかった。

 一体、唯はいつの間にこんなに鍛えたのだろうか?

「ほら、急ぎなさい!電車が来ちゃったわよ!?」

「……ハァッ!……ハァッ!!……」

 もう僕には、唯に返事したり抗議したりする余裕は無かった。

 ただ必死に肺に空気を送り込み、足と腕を動かすだけだった。

「もうちょっとよ!根性見せなさい!!」

「……ハァ~ッ!……ハァ~ッ!!……」

 駅のホームへとつながる階段を、僕は気力だけで昇降していた。

 それに対して唯は、一段飛ばして階段を駆け上がり僕を待っていた。

「……駆け込み乗車は、大変危険で~~す」

 僕が倒れ込むように電車内に入ると、そんなアナウンスが流れた。


「ほら、これでも飲みなさい」

「……ハァッ!……ありが……ハァッ!!……と……」

 僕は、唯から受け取ったスポーツドリンクをあおった。

 ここまで来る間に買うなんて無理だから、こうなることを想定していたのだろう。

「……あんた、昔はあたしより速くなかった?」

「そうだったっけ?あんまり覚えてないな……」

 僕は唯と幼稚園からの付き合いだが、そんなに僕が速かった記憶は無い。

 ただ、昔と比べると走ったりする機会は減った気がする。

「あんた、アニメの見過ぎで体がなまってるんじゃ無いの?」

「中学校じゃ部活に入ったりしなかったからね」

 喧嘩騒動を起こした僕は、悪い意味での有名人となった。

 そんな僕は、人目を避けるように中学時代を過ごしたから部活にも入ってない。

「……そう」

「唯、どうかしたの?」

 僕の顔を唯がじっと見つめている。顔に何かついているだろうか?

 しかし彼女の目はそんな感じでは無く、どこか悲しそうな寂しそうな目だ。

「ちょっと良い?」

「え?何?」

 不意に彼女の手が僕の顔へとのび、僕の顔から眼鏡をひったくった。

 僕の視界はモザイクでもかかったかのようにぼやけ、彼女の表情が見えなくなった。

「……少し……そのままで居なさい」

「え?唯、これじゃ何も見えないよ?」

 僕は抗議したが、彼女は黙ったままで眼鏡を返してはくれなかった。

 ただ、僕の耳には彼女が「どうしてよ」と言ったように聞こえた。

「……」

 僕にはそれ以上、何も言うことが出来なくて黙って座っているだけだった。

 ただなんとなく、そうするべきだと思い彼女に僕のハンカチを貸してあげた。

「ありがとう。いつも」

「ううん、僕の方こそ助けられてるからね」

 僕と唯は、それっきり言葉を交わさずに電車に揺られていた。

 彼女が口を開いたのは、僕たちが降りる駅の名がアナウンスされてからだった。

「このハンカチ、汚れちゃったから洗って返すわね?」

「え?別にそんなことしなくて良いよ?」

 そう言ったが、結局彼女はハンカチを返してくれなかった。眼鏡は返ってきた。


 駅に着いてからの唯は、いつもの彼女だった。

「ほら、グズグズしないの!せっかく快速列車に乗ったんだから!!」

「う、うん!」

 電車の中で唯が一瞬だけ見せた表情は、一体何だったのだろうか?

 僕はそれを確かめることも出来ずに、彼女のあとについて走った。

「唯、どこで勉強するの?」

「あたしの家に決まってるでしょ!?あんたの家じゃおもちゃがいっぱいじゃ無い!」

 なるほど、確かに僕の家にはプラモデルやらマンガやらが手が届く範囲にある。

 しかし、それらをひとまとめにして『おもちゃ』と呼ぶのは釈然としなかった。

「でも唯、こっちは僕の家の方角だよ!?」

「一旦家に帰って、外泊の準備をするのよ!」

「え!?外泊!!?僕が唯の家に泊まるってこと!!!?」

「そうよ!他にどこに泊まるのよ!?」

 彼女から告げられたのは、衝撃の期末対策計画だった。

 唯は、この土日を自分の家で過ごすように僕に言っているのだ。

「で、でも!そんなのお母さんが許してくれるかな?」

「安心なさい。おばさんにはもう、許可とってあるから」

「……いつもながら抜け目ない」

 僕は時々、唯が底知れぬ存在に見える時がある。

 彼女はどれくらい先まで見通してて、何手先まで手を打ってるのだろうか?

「さあ、着いたわよ。手伝ってあげるからさっさと準備なさい」

「大丈夫だよ!自分で出来るよ!!」

 いくら幼なじみでも、女の子に自分の荷物の支度なんて頼めない。

 僕はそう言って、唯に一階で待つように頼んだ。

「今更、あたしに見られて困るものなんて無いでしょ?」

「あっ!ちょっと!!」

 しかし唯は僕の制止を振り切って、ズカズカと僕の部屋へと侵入した。

 彼女は、僕が年頃の男子だとちゃんと分かってるのだろうか?

「あんた、脱いだパジャマはちゃんと洗濯機に入れなさい!」

「そんなことより出かける準備でしょ!?」

 これ以上いらぬ詮索をされては困るので、僕は大急ぎで外泊の準備をした。

 夏だから、冬に比べて衣類が少なくてすんだので荷物はすぐに用意できた。

「生活態度の指導も必要みたいね」

 僕が準備してる時に、唯がそんなことを言った気がするが今はどうでも良い。


「準備できた?」

「……うん、一応……」

 僕は唯にせっつかれながら、外泊の準備を終えた。

 替えの下着に普段着に歯ブラシ、もちろん勉強道具も用意した。

「一応って何よ?歯切れが悪いわね」

「ちゃんと準備したつもりだけど、もしかしたら何か足りないかもしれないでしょ?」

 僕自身は万全の準備をしたつもりではある。

 しかし僕が気づかなかっただけで、何かが抜けているということはあり得る。

「仕方ないわね。足りなかったら、取りに帰ってもらうだけよ」

「……本当に唯の家に泊まる必要なんてあるの?」

 正直、勉強するだけならここまでしなくても良い気がする。

 外泊したからと言って、勉強が捗ったりするのだろうか?

「効率悪いじゃ無い。移動時間がもったいないでしょ?」

「それは、そうだけど……」

 確かに効率性を追求すると、唯の意見が正しいことになる。

 仮にどちらかの家で勉強するにしても、わざわざ集まらなくてはいけない。

 しかし例えそうだったとしても、僕は唯の家に泊まるのに抵抗があった。

「何?あたしの家に行くのがそんなに嫌?」

「そんなことは無いよ!ただ……」

 僕は別に唯のことが嫌いなわけでは無い。

 むしろ、久しぶりに会った彼女を見て少しドキッとしたくらいだ。

「何よ?言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさいな」

「女の子が男子と二人っきりなんて、マズくない?」

 僕が気にしているのは、間違いが起こらないかと言う点だ。

 いくら家族同然に育った幼なじみでも、万が一ということはある。

「別に大丈夫よ。あんたとなら」

「……だよね」

 僕はそれを言われて、なんとなく寂しい気持ちになった。

 唯は、僕とはそんな間違いは絶対に起こらないと言っているからだ。

「さ、行きましょ?」

「……うん」

 僕はなんだかスッキリしない、モヤモヤした気持ちのまま出かけることとなった。

 信頼されていると言われれば聞こえは良いが、男扱いされてないのは悲しかった。

 唯と僕の家は、歩いて十分もしない距離にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る