上弦の月が沈む頃
「ハカセ。私って、どう死んだんでしたっけ?」
ナミはそう、『ハカセ』に聞いた。
天界とはいっても、ここは書斎だ。赤みがかったダークブラウンで統一された小さな部屋は、『ハカセ』——もとい、カミサマの部屋と言うには質素でしょぼかった。
「ナミくんはいっつもそうやって、自分の死を話題にあげてくるよね。並の人間じゃできないよ」
『ハカセ』はため息をついて、ナミを見据える。そして、長い一本の三つ編みの先をいじる。暇そうだった。
「ハカセ、それ私の名前とかけてるんですか? ……まあ、よくバカにされましたけど」
感じじゃなくてカタカナですしね、と言って、その場でくるっと回る。
『ハカセ』はあまり深刻になりすぎない声色で言った。
「ナミくんが事故で亡くなったのは、もう、今から十二年前のことだよ。娘を置いて他界した」
「その娘ってとこがよくわからんのですよね」
ナミは十二年前に事故で亡くなり、自分の名前以外を全て忘れて、ここ、天界へと来た。
今は『ハカセ』——彼女がそう呼んでいるが、カミサマのことである——と一緒に、様々な雑務をこなしている。
夢のない話だが、天界にも雑務はある。死んでしまった人の身元の確認や、天国に行くか地獄に行くか、生まれ変わるか。
はたまた、ナミのように天界に残り、こうやって仕事をするか。
ナミは、地上の世界に残して来た娘がいる。今ではもう、十七歳だろう。
「私、自分の名前しか分からないんですよねぇ。……やっぱり無理です。娘がいたって言われましても全然」
「…………」
そんな彼女に、自分が生きていた時の人生の壮絶さを伝えるわけにはいかない、と思った『ハカセ』はいつもここで口をつぐむ。
「そういえば、ナミくん? なんで私のことは『ハカセ』って呼ぶのかな……。カミサマなんだけど、一応」
そう、『ハカセ』はぼやく。『ハカセ』は、彼女の頭の回転の速さと、語彙力に助けられている。そのため、そんなに強く言っては、ここを出ていってしまうと思っている。
実際、そんなことは多分ないのだが。彼女が娘のことを思い出したら、何か変わるだろうか。
「一応カミサマってだいぶパワーワードですよ。一応で済ませられるものじゃありません。……そうですねぇ」
理由を思い出そうとしているのか、頭を傾ける、ナミ。
「まあ、カミサマって所謂この世のプロフェッショナルみたいなもんじゃないですか。この世界の全てを知り尽くしてる感じで、博識そうだから、『ハカセ』」
「こじつけてない?」
『ハカセ』はそう言って、またペンを手に取る。そういえば、今年の二月か、三月頃から、やけに忙しい。何かあったっけ。
「いやぁ、まあこじつけてますけど、私自身、なんか、『ハカセ』って呼んでみたかったんですよねぇ。生前の私は、理系の職業に、本当は就きたかったのかもしれません」
そう言っている間に、ナミは死亡者のプロフィールを引っ張り出して眺めている。
どんな人か、何歳で死んだか。過去のものから、最近のものまで、本棚には全てが詰まっている。
「今は地上は夜ですかねぇ」
「ちょうど十一時半と言ったところかな」
「不正解です。十一時四十八分二十九秒でした」
そう言う話じゃないだろう、と『ハカセ』は失笑する。
「そういえば、今年の春からなんか、たくさん死亡者が来てましたよねぇ」
『ハカセ』はいつも黙っているので、話題を振るのはいつもナミだ。しかし、そのことを、二人ともどうとも思っていなかった。
「そういえばそうだ。なんか事件でもあったかな……あ」
「思い出しましたか?」
ナミが『ハカセ』の顔を覗き込む。
「なんか、どこかで、現世に歪みがまあまあな期間あったじゃん」
「ああ、あれですか。解決したんでしたっけ」
そう、と『ハカセ』は頷き、自分の記憶を確かめるようにぽつぽつと言った。
「そこにたくさん、現世で彷徨ってた幽霊がいたらしいから、その分遅れて来てたんだよ。そうだそうだ、思い出した」
『ハカセ』が、すっきりした、といった風の顔をした、その時。
「……この人」
ナミは、唐突に、あるページで手を止め、目を大きく見開いた。俯いて長い髪が、視界を遮っている。
「どうしたの? この件のことで申告ミスでもしてた?」
「いや。違います。すいません。私、地上に少し降りて来ます」
ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がる。
見れば、顔は少し青ざめている。いつもは綺麗にしている髪の毛がぐしゃぐしゃに乱れているのがわかった。
頭を掻きむしったのだろうか、彼女らしくなかった。
「何故? 何かあった?」
「会いに行くべき人がいる」
有無を言わさぬ口調で、ナミは書斎を出て行った。それなのに、冷静にドアを閉めて行った。
足音は、聞こえなかった。
『ハカセ』は直前にナミが見ていたページを見て、額を抑えた。
「あっちゃあ。
なんか、うまいことまとめてくれてたんだよね。未練のある人は、何か、物に霊を宿してあげる、みたいな。
ナミが彼に会って、何を言うだろうか。もしかしたら、もう二度とここに戻ってこないかもしれない。
そう思っていたら、ナミが思ったよりとても早く戻って来た。
涙で顔に髪の毛が張り付いて、頬は真っ赤になっていた。
「私っ」
「うん」
「娘と——夫に会いました。正確には夫ではないですが」
「これからどうする」
カミサマが聞いたのは、ここに残るか、向こうで暮らすかのことだった。しかし、ナミはそれを分かっていて、話を続けた。
「彼らを見守ろうと思いました。申し訳なくて、話しかけられなかった」
「どうだろう。案外、娘ちゃんの方は、泣いて喜ぶんじゃないかな」
カミサマは何だか無責任だった。人の感情には、あまり共感できない性なのだ、彼女は。
「カミサマ。……私、まだここにいていいですか」
ナミは、泣くのをやめて、カミサマに聞いた。
「もちろん。むしろ私は、君がいなくなってしまうんじゃないかと不安でしたよ」
カミサマは笑いかけた。天界の雑務は続く。
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