第18話:「静寂への旅立ち」

 初夏の柔らかな日差しが障子を通して和室に差し込む朝、美月は静かに目を覚ました。今日から、彼女の「デジタルデトックスの旅」が始まる。美月は深呼吸をし、心の準備を整えた。


 起き上がった美月は、いつもの朝の儀式を丁寧に行った。畳の上で軽くストレッチを行い、体を目覚めさせる。その後、窓を開け、新鮮な朝の空気を部屋に招き入れる。庭に植えたラベンダーの香りが、そよ風に乗って漂ってきた。


 美月は、旅の準備に取り掛かった。今回の旅では、できるだけシンプルに、必要最小限のものだけを持っていくことに決めていた。選んだのは、祖母から受け継いだ古い革のトランク。長年の使用で味わい深い風合いを帯びたそのトランクは、美月の旅への想いを静かに包み込むようだった。


 衣類は、自然素材にこだわって選んだ。上質な麻のワンピース、柔らかな綿のカーディガン、そして手織りの羽織。どれも、美月の肌に優しく馴染む素材ばかりだ。靴は、長年愛用している本革のサンダル。足に馴染んだその靴は、長い散歩にも耐えうる信頼できる相棒だった。


 化粧品は最小限に抑えた。自家製のローズウォーター、オーガニックの日焼け止めクリーム、そして蜜蝋を使った自作のリップクリーム。これらは全て、美月が丹精込めて作り上げたものだ。


 美月は、小さな和綴じのノートと万年筆を慎重にトランクに収めた。デジタル機器から離れる代わりに、自分の思いを言葉にして書き留めるためだ。


 最後に、美月は祖母から譲り受けた古い懐中時計を手に取った。電池を使わないこの時計は、美月にとって特別な意味を持っていた。ゼンマイを巻く音が、美月の心に静かな決意を促す。


 身支度を整えた美月は、鏡の前に立った。髪は、自然な風合いを生かしたナチュラルなまとめ髪。顔には最小限の化粧を施した。淡いベージュのBBクリームで肌を整え、ほんのりとしたピンク色のチークを頬に乗せる。唇は、自作のリップクリームで潤いを与えるだけにとどめた。


 美月は、自分の姿を鏡に映して静かに微笑んだ。シンプルでありながら、凛とした佇まいがそこにはあった。


「さあ、新しい発見の旅に出発しましょう」


 美月は小さく呟き、古い木造アパートを後にした。


 駅に向かう道すがら、美月は普段何気なく過ごしている日常の風景を、今までとは違う目で見つめていた。街路樹の緑が、今までよりも鮮やかに感じられる。道行く人々の表情が、一人一人異なる物語を語っているかのように見える。


 駅のホームに立ち、美月は深呼吸をした。これから向かう山奥の温泉宿は、携帯電話の電波すら届かない場所だという。不安と期待が入り混じる気持ちを、美月は静かに受け入れた。


 列車が到着し、美月は静かに乗り込んだ。窓際の席に座り、ゆっくりと動き出す車窓の風景に目を向ける。都会の喧騒が徐々に遠ざかり、緑豊かな自然が広がっていく。美月は、その移ろいを心に刻むように見つめていた。


 列車の中で、美月は持参した和綴じのノートを開いた。ペンを走らせ、これから始まる旅への想いを言葉にしていく。


「デジタルの世界から離れ、本当の自分と向き合う旅。この一週間で、何を発見できるだろうか。不安もあるけれど、それ以上に、自分自身の内なる声に耳を傾ける時間が持てることへの期待で胸が高鳴る」


 美月は、そう書き記した。窓の外では、初夏の陽光に輝く緑の山々が、美月を静寂の世界へと誘うかのように広がっていた。


 列車が最寄りの駅に到着すると、美月は静かに降り立った。ホームに立つ彼女を出迎えたのは、澄んだ空気と鳥のさえずりだった。駅前には、温泉宿の送迎車が待っていた。


 車窓から見える景色は、都会の喧騒を忘れさせるほどに美しかった。深い緑に覆われた山々、清流のせせらぎ、そして時折見える古い民家の佇まい。美月は、この風景に心を奪われながら、自然と調和して生きることの意味を考えていた。


 宿に到着すると、美月は丁寧に挨拶を交わし、部屋に案内された。和室は質素でありながら、隅々まで行き届いた心遣いが感じられた。畳の香り、障子を通して柔らかく差し込む光、そして窓外に広がる山の景色。全てが美月の感性を優しく刺激する。


 荷物を解いた美月は、まず部屋に備え付けられた浴衣に着替えることにした。上質な綿で作られたその浴衣は、肌に心地よく馴染む。帯を結ぶ所作にも、美月は細心の注意を払った。鏡に映る自分の姿を確認すると、そこには日常から解き放たれた、新しい自分が佇んでいるように感じられた。


 美月は、宿の庭を散策することにした。苔むした石畳を歩き、手入れの行き届いた日本庭園の美しさに目を奪われる。池の水面に映る木々の姿、風に揺れる萩の花、そして遠くに聞こえる鳴き鳥の声。全てが一つのハーモニーとなって、美月の心に染み入っていく。


 夕暮れ時、美月は露天風呂に浸かった。湯気の向こうに沈みゆく夕日を眺めながら、美月は深く息を吐いた。温泉の温もりが、デジタル機器から離れたことによる不安や緊張を少しずつ解きほぐしていく。


 夕食は、地元の食材を使った会席料理だった。一つ一つの器に盛られた料理の美しさに、美月は目を細めた。山菜の天ぷら、地元の川魚の焼き物、季節の野菜を使った煮物。それぞれの味わいが、美月の舌を通じて心に届く。


 食事を終えた後、美月は部屋に戻り、持参したノートを開いた。ペンを走らせ、今日一日の体験を丁寧に書き記していく。


「デジタル機器から離れてみると、これまで気づかなかった世界の細やかな美しさが見えてくる。自然の音、風の感触、食べ物の味。全てが新鮮に感じられる」


 美月は、そう書き記した。窓の外では、満天の星空が広がっていた。普段は気づかなかった星々の輝きに、美月は息を呑んだ。


 就寝準備を整えながら、美月は明日への期待を胸に抱いた。デジタルデトックスの旅は、まだ始まったばかり。これからどんな発見があるのか、美月の心は静かな高揚感に包まれていた。


 布団に横たわり、美月は深呼吸をした。耳を澄ますと、遠くで鳴く虫の音が聞こえてくる。その音に耳を傾けながら、美月はゆっくりと目を閉じた。デジタル機器の通知音に邪魔されることのない、深い眠りの中へと誘われていく。


 星々が輝く夜空の下、美月の新たな旅は、静かに進んでいった。

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