第9話:「静かな夜の贅沢」

 金曜日の夕暮れ、美月は窓辺に立ち、ゆっくりと深呼吸をした。空は柔らかな紫色に染まり、街の喧騒が徐々に静まっていく。美月は、この瞬間を心に刻むように、静かに目を閉じた。


「今夜は、自分へのご褒美の時間」


 美月は静かに呟いた。彼女の声には、ほんの少しの期待と、穏やかな喜びが滲んでいた。


 美月は、丁寧に身支度を整え始めた。まず、天然由来成分のみを使用したスキンケア用品で肌を整える。先日自作したローズウォーターを顔全体に軽く吹きかけ、しっとりとした感触を楽しむ。化粧は最小限に留め、素肌の美しさを引き立てるように、ほんのりとしたチークと、唇に塗った淡いローズ色のリップバームだけにした。


 髪は、自然な風合いを生かしたゆるやかなアップスタイル。後ろで軽くまとめ、前髪は少し流して顔周りを柔らかく演出した。耳元には、祖母から譲り受けた小さな真珠のイヤリングを付けた。


 服装は、シンプルながら上質な紺色の着物を選んだ。しっとりとした絹の質感が、美月の肌に優しく馴染む。帯は、淡いグレーの博多織。その上に、手作りの帯留めを添えた。これは、先日の和紙作りで作った和紙を使って作ったもので、淡い青色の中に銀色の糸が織り込まれている。


「シンプルだけれど、心を込めた装い」


 美月は、そう感じながら、鏡に映る自分の姿を確認した。


 準備を終えた美月は、小さな布巾包みを手に取った。中には、お気に入りの漆塗りの箸が入っている。「なごみ」での食事には、いつもこの箸を持参することにしていた。


 美月は、静かに家を出た。夕暮れの街を歩きながら、美月は一週間の出来事を静かに振り返る。コミュニティセンターでのボランティア、手作り化粧品の実験、音楽の時間、そして瞑想の日。それぞれの経験が、美月の心に深い満足感をもたらしていた。


「日々の小さな喜びの積み重ねが、人生を豊かにしてくれるのね」


 美月は、そう感じながら、ゆっくりと歩を進めた。


 路地裏に入ると、古い木造の建物が見えてきた。看板もない、隠れ家的な佇まいの小料理屋「なごみ」だ。美月は、この静かな雰囲気が好きだった。


 店に入ると、馴染みの女将さんが優しく迎えてくれる。


「いらっしゃいませ、美月さん。今日もお着物がお似合いですね」


 女将さんの温かい言葉に、美月は柔らかな笑みを返した。


「ありがとうございます。今日は一週間の締めくくりに来ました」


 カウンター席に座った美月は、まず冷酒を注文した。美月は、地元の酒蔵が作る純米酒を好んで飲む。


「お酒は、その土地の文化や歴史を映す鏡」と美月は考えている。


美月は、目の前に置かれた備前焼の酒器を静かに見つめた。深みのある焦げ茶色の器は、まるで大地そのものを切り取ったかのような風合いを持っている。その中に注がれた透明な酒は、月光を湛えた小さな泉のようだ。美月は、その姿に日本の美の本質を見出した気がした。


 酒器を手に取り、鼻先に近づける。ほのかに香る酒の芳醇な香りが、美月の感覚を優しく刺激した。それは、まるで春の朝露のように清々しく、同時に熟成された米の深い香りを秘めていた。


 美月は、目を閉じてゆっくりと一口含んだ。すっきりとした味わいが、舌先から喉元へと広がっていく。最初の瞬間は、清冽な山水のように爽やかだ。そして次の瞬間、まろやかな旨味が口中に満ちていく。それは、まるで春の陽光が徐々に大地を温めていくかのようだった。


 美月は、この味わいを十分に堪能してから、ゆっくりと目を開けた。世界が、さっきまでよりも少し鮮やかに見える気がした。


 そのとき、女将さんが季節の小鉢を運んできた。今日の一品は、新鮮な蕗の薹の天ぷら。黄金色に揚がった天ぷらは、まるで春の野に咲く小さな花のよう。美月は、その香りを深く吸い込んだ。


 箸で一つをそっと取り、口に運ぶ。外はサクッとした食感、中はしっとりとした柔らかさ。噛むごとに、蕗の薹特有の苦味と香りが口の中に広がる。それは、まるで春の息吹そのものを味わっているかのようだった。


「本当に美味しいものは、余計な装飾を必要としないのね」


 美月は、心の中でつぶやいた。この素朴な一品に、彼女は旬の味わいを存分に感じ取っていた。


 次に運ばれてきたのは、焼き魚だった。近海で獲れた小鯛が、シンプルな塩焼きで供されている。銀色に輝く魚の皮は、炭火で丁寧に焼かれ、所々に香ばしい焦げ目がついている。


 美月は、持参した箸で優しく身をほぐした。白く透き通った身が、まるで宝石のように光っている。一口頬張ると、ふわりとした食感と共に、魚本来の旨味が口の中に広がった。塩加減は絶妙で、魚の甘みを引き立てている。


 美月は、この味わいを噛みしめながら、カウンター越しに料理人の仕事ぶりを眺めた。包丁を操る手つきや、火加減を調整する様子に、長年の経験と技が感じられる。美月は、その姿に職人の魂を見た気がした。


 時折、女将さんや常連客と軽く言葉を交わすが、美月は大半の時間を静かに過ごした。店内に流れる静謐な空気が、美月の心を癒していく。


「このような静かな時間も、贅沢な時間なのかもしれない」


 美月は、そう感じながら、店内の雰囲気に身を委ねた。


 女将さんが、新たな料理を運んできた。今度は、季節の冷やし鉢だ。翡翠色の若竹と、桜色の甘海老が、白磁の器の上で美しいコントラストを描いている。


 美月は、まず若竹を箸で摘んだ。歯ごたえのある食感と、ほのかな苦みが口の中に広がる。その瞬間、美月の脳裏に竹林の風景が浮かんだ。続いて甘海老を口に運ぶ。プリっとした食感と共に、海の深い旨味が舌の上で踊る。それは、まるで波間に揺れる海藻のようにしなやかで、同時に岩場に打ち寄せる波のように力強かった。


「自然の恵みって、本当に素晴らしいわ」美月は、深い感動と共にそう感じた。


 次に運ばれてきたのは、初夏の香りを纏った蛍烏賊の沖漬けだった。透き通るような身は、まるで月光を閉じ込めたかのよう。一切れを口に含むと、ほのかな酸味と共に、海の深みが口の中に広がる。その味わいは、夜の海で舞う蛍烏賊の姿を連想させるほど幻想的だった。


 美月は、一つ一つの料理を、まるで人生の一瞬一瞬を大切にするかのように、丁寧に味わっていった。


 そして次に、料理人が美月の目の前で仕上げる鱧の落とし焚きが運ばれてきた。湯気と共に立ち上る上品な出汁の香りが、美月の鼻腔をくすぐる。それは、まるで初夏の夕暮れ時に川辺を歩いているような、懐かしくも新鮮な香りだった。


 美月は、箸で鱧の身をそっとすくい上げた。口に運ぶと、その身は舌の上でふわりと溶けていく。出汁の旨味と鱧の上品な味わいが見事に調和し、まるで和歌の一節のように美しい余韻を残す。


「これこそが、日本料理の真髄ね」


 美月は、深い満足感と共にそう感じた。


 美月は、一つ一つの料理を通じて、季節の移ろいと自然の恵みを全身で感じていた。それは単なる食事ではなく、日本の文化と伝統を五感で体験する、贅沢な時間だった。美月は、この瞬間がいつまでも続けばいいのにと思いながら、ゆっくりと箸を進めた。その表情には、深い感謝と静かな喜びが満ちていた。


 締めの一品は、季節の炊き込みご飯だった。

 蓋を開けると、筍の香りが立ち昇る。美月は、その香りに春の訪れを実感した。


 茶碗に盛られたご飯は、まるで春の野原のよう。筍の淡い黄色と、刻まれた山菜の緑が、白いご飯の中に美しく散りばめられている。ほんのりと醤油が効いた香り高いご飯に、美月は思わず顔をほころばせた。


 一口、口に運ぶ。筍の歯ごたえと、しっとりとしたご飯の食感が絶妙に調和している。噛むほどに、だしの旨味と醤油の香りが口の中に広がっていく。それは、まるで春の森を散歩しているかのような味わいだった。


「自然の恵みを、こんなに身近に感じられるのは幸せなことね」


 美月は、そう思いながら、一粒一粒丁寧に味わった。それぞれの粒に、料理人の技と自然の恵みが詰まっている。美月は、その一粒一粒に感謝しながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。


 最後の一粒まで味わい尽くしたとき、美月は深い満足感に包まれていた。それは単なる空腹が満たされた喜びではなく、自然と人の技が織りなす美食の世界に触れた充実感だった。美月は、この静かな幸福の時間を心に刻み付けた。


 2時間ほどで、美月は「なごみ」を後にする。決して派手ではないが、質の高い料理とお酒、そして温かな雰囲気。美月にとって、この金曜の夜の小さな贅沢は、一週間の疲れを癒し、心を満たしてくれる大切な時間だった。


 帰り道、美月は今夜の味わいを思い返しながら、静かな満足感に包まれていた。


「幸せは、こういった小さな瞬間の積み重ね」


 美月は、そう感じながら、夜空を見上げた。星々が、静かに輝いている。


 家に戻った美月は、和綴じのノートを取り出し、今夜の体験を記録し始めた。


「今日の気づき:贅沢とは、高価なものや派手なものではなく、心を満たす小さな幸せの瞬間のこと。日々の生活の中に、そんな瞬間を見つけ、大切にすることが、豊かな人生につながるのかもしれない」


 美月は、そう書き記した。そして、窓際に置いてある小さな盆栽を見つめながら、新たなアイデアが芽生えるのを感じた。


「明日は、この盆栽の手入れをしてみようかしら。小さな自然を愛でることも、心を豊かにする贅沢な時間になりそう」


 美月の心に、そんな決意が芽生えた。今夜の静かな贅沢が、美月の日常に新たな彩りを添えようとしていた。

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