ep7-5 人生、辛いことばっかりじゃない、よね?

「おや、梨乃ちゃん、今日は珍しいね? 一人でなんてさ、それとも美幸ちゃんは後から来るのかい?」


 あのまま家に帰る気にもならず一人で『アミーガ』へとやって来たあたしに、マスターの藤香さんがそう声を掛けてきた。


「別に……そういう時もありますよ。親友だからって四六時中一緒にいなきゃいけないって言う決まりはないでしょう? それよりいつものを一つ下さい」


 我ながらあまりにつっけんどんすぎる態度だとは思ったが、藤香さんはどうやらその態度で何かを察したらしく、それ以上は何も言わずいつものコーヒーを出してくれた。


「……」


 あたしはカップを手に取るとあえて何も加えずに静かに口を付けた。


 苦い……苦すぎる……。


 ここのお店のコーヒーは元々苦く、あたしはいつでも砂糖とミルクをたっぷり入れるのだが、今日のコーヒーは今までとは一線を画した苦さだった。


 まるで今のあたしの気分を代弁しているかのように……。


「……なんか、あったのかい?」


 ハッと顔を上げると、マスターの藤香さんがカウンター越しに心配そうな視線を送っていた。


「何もありませんよ」


 あたしは努めて明るい声でそう答えたつもりだったが、それがさらに逆効果だったようで……。


「何もないってことはないだろ? そんな泣きそうな顔して……」


 ああもう! なんでこの人はいつもこう鋭いのよ!? いやまああたしがわかりやすいだけってのもあるかもだけどさ……。


「……別に……いつものように現実ってのに打ちのめされてるだけです。受験、人間関係、中三のぼっち女子の悩みは尽きないんです」


 へらっと笑ってあたしは言った。


「梨乃ちゃん……」


 藤香さんが悲しげな表情を浮かべる。


 そんな顔をさせたかったわけじゃないのに……と、さらに自己嫌悪に陥るあたしだったが、それはおくびにも出さずさらに軽い口調で続ける。


「あんまり気にしないでください、あたし割と浮き沈み激しいんです。藤香さんにはものすごーく落ち込んでるように見えるのかもしれないですけど、家に帰ってご飯食べるころにはもうケロッとしてますから」


 そう言ってあたしはコーヒーを一気に飲み干す。


「それじゃ、お会計お願いしますね」


 そして立ち上がると空になったカップを藤香さんに差し出すのだった……。


 そんなあたしの様子が気にかかるのか、藤香さんはどこか心配そうな視線を送ってくるがそれには気づかないふりをして店を出たあたしだった。


 ……馬鹿だな、あたしは……素直に藤香さんにさっきのこと話して慰めの言葉の一つでももらえれば、少しは気が楽になったのかもしれないのに……。


 プライドとか言う役にも立たないものがあたしから素直になるという選択肢を奪ってしまっていた。


 だけど、それでも……、その事実は今のあたしにとって救いだった。


 ……頑張れるよね、あたし?


 自分に問いかけると、


 もちろんでしょ? あたしを誰だと思ってんの? と、もう一人のあたしが答える。


 しかし、その翌朝から再びあたしの心は酷く揺さぶられることになるのである……。




「おはよ~」


「おはよう……って、どうしたの梨乃? あなた目の下にクマができてるじゃない」


 翌朝、リビングへとやってきたあたしを見たお母さんが驚いたように声を上げた。


 色々考えてしまったせいでなかなか寝れず、あたしの顔は酷いことになっているのだ。


「ちょっと、遅くまで勉強頑張り過ぎちゃって……」


 完全なる嘘だがそう答えつつあたしは椅子に腰かける。そのまま用意されていた朝食に手を付けるべく箸に手を伸ばすが、


「梨乃……」


 とどこかうっとりとした様子のお母さんの声にその手を止める。


「あなた、とうとうわかってくれたのね、あたしたちの想いが!」


「はえ?」


 お母さんの言葉の意味がわからずあたしは間の抜けた声を上げる。


 そんなあたしを気にする様子もなく、お母さんは続ける。


海明かいめい大付属女子に入学できれば必ず将来は約束される! あなたもようやくその気になってくれたのね!」


 しまった……言い訳として使った勉強という言葉が仇になってしまったようだ。


「え? いや、あたしは……」


 と言いかけたところでお母さんがあたしの言葉を遮ってまくし立てるように言う。


「ああ! もう、嬉しいわ梨乃! あたしもお父さんも心配だったのよ、あなたはどこかやる気がないように見えたから。でも、寝る間も惜しんで勉強に励むなんて……あなた、今が人生の正念場よ! お母さんもお父さんもそのつもりで全力で応援するから!」


「あ、いや……」


 ああもうダメだこれ、完全に火がついてしまった。こうなってはもう何を言っても無駄だとあたしは悟るのだった。


 困るなぁ、これでまたあたしに対する無駄な期待感が増してしまうのかと思うと気が重い。


「だけどね……」


 とふと、お母さんは神妙な面持ちに変わって続けた。


「あまり頑張り過ぎるのは良くないわよ」


 ……この人はあたしに無理をさせたいのかさせたくないのかどっちなのよ……。


 海明大付属なんていう明らかにあたしの身の丈に合わない高校に入れようとしているくせに、頑張り過ぎるのは良くないなんて矛盾している。


 どっちもあたしのことを思うが故の言動だとはわかっているけれど、それでもやはり素直に頷くことは出来ずあたしは曖昧に笑みを浮かべるのだった……。


 そんなあたしにお母さんは少しだけ興味を引くような話をし出した。


「あんまり頑張り過ぎて梨乃が指原さしはらさんのところの娘さんみたいに、失踪とかしちゃったら大変だものね」


「ん? 何その話?」


 とりあえず食べながら話を聞こうとあたしは朝食に手を伸ばしつつ訊いた。


「ご近所の噂で小耳に挟んだんだけどね、指原さんのところの娘さん、梨乃と同じ阿久野あきゅうの女子中に通ってる二年の子なんだけど、二週間ほど前から家に戻ってないらしいのよ。なんかの事件に巻き込まれた可能性がないわけでもないけど、家出の可能性が高いらしいわ、なんでもこれまた近所の噂によるんだけど、指原の奥さん、娘さんに対してかなりうるさくあれこれ指図してたらしくってね。娘さんはそれに反発して家出しちゃったみたいなのよ」


「へぇ、そうなんだ……」


 あたしはそう相槌を打ちながら朝食を口に運ぶ。


 なるほど、だから突然優しい言葉をかけてくれたわけか。


 正直あたしのお母さんはその指原さんの奥さん側の人間だろうと思っていただけに、その指原さんの娘さんに対する同情的な態度には驚かされる。


 実は……あたしも家出を画策したことがあった、勉強が嫌で、束縛が嫌で、両親の元から離れたいと思っていた。


 だけど、それをする度胸が(お金も)なくて、今日までずるずる来てしまったわけだけれど……。


「大丈夫よ、あたしは……。お母さんやお父さんを悲しませるようなことはしないから……」


 他人の失踪話がきっかけというのもどうかと思うが、思いがけず自分は案外このお母さんから愛されているのだなと実感できたことで、あたしは少しだけ心に余裕を持つことが出来た。


 受験勉強……ちょっとだけ本気で頑張ってみようかな……なんて、ね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る