4、火起請
一、
◇◆◇
平安の世の話である。
ある若い武士は、ある日近江の国の橋に大蛇が出て通れないという話を耳にする。血気盛んな若い武士は、早速退治しようと意気込み、人々の制止も無視して大蛇に近づいた。
緊張する武士に対し、蛇はちらりと武士を見ただけで、動こうとしなかった。
「なーんだ、別にでかいだけの普通の蛇ではないか。恐ろしくもない」
武士は、大蛇をまたいで橋を通って行った。
その晩のことである。武士の家に、この世の者と思えないほど美しい娘が現れた。
娘は琵琶湖に住む龍神の娘で、大蛇に化けて勇ましき者を探していたのだと話す。
「三上山に、山を七巻半するほどの大百足が出没し、龍神の一族を迫害しているのです。どうか、お力添えを願えませぬか」
これに対し、武士は快くうなずいた。
武士は白い鉢巻きを締めると、弓矢を引っ提げて三上山に向かった。山には娘の言うとおり、大百足が巻き付いている。人里に下りる前に始末してやると、武士は弓矢を打ち込むが、硬い皮膚に弾かれびくともしない。
矢は、とうとう最後の一本になった。
その時、武士は思い出した。
百足は人の唾を嫌うということを。
武士は矢に唾を吐きかけると八幡大菩薩に祈り、懇親の力を込めて矢を放った。
矢は百足の脳天に突き刺さった。百足はもだえ苦しんだ後に倒れ込む。絶望寸前に、百足は「俺は七巻き半、奴は鉢巻(八巻き)…」と吐き捨てたという。
◇◆◇
「いや、
「
「おじ……! 仕方ないだろ、実際そういう話なんだから!」
紅葉はその場でぴょんぴょん跳ねながら憤った。
「これに似た話は、各地にあるからな。やっぱり、昨日の妖は大百足で間違いないだろうよ。しかも、お前が昨日、子どもを倒しちまったもんだから……相当怒ってることは間違いないぞ」
「だとしたら――現れるのは、今夜」
明晴は立ち上がった。紅葉が肩に飛び乗ってくるのを受け止めながら、
海道は怪訝そうな顔をしながらも、拒むことはしなかった。
「弓矢をお借りしたいんです」
「弓矢? なぜだ。そなたには、陰陽師の術とやらがあるではないか」
「妖を倒すために必要なんです」
各地に似た伝承は転がっている。そして、そのどれもが弓矢で大蛇を倒している。
(子どもの大百足ですら、倒すのに難儀したんだ。母親はもっと強い。試せるなら、何だって試さないと)
明晴が頼むと、海道は渋々小さめの弓と矢筒を渡してきた。
「そなたの背丈ならば、大弓よりも、そちらの方が扱いやすかろう。織田家にお仕えするならば、弓術の心得はあろう」
「あ、いえ。ありません」
「ふん、流石に織田家の陰陽師よ。このような童でも――え? ない?」
「はい」
明晴は胸を張ってうなずいた。
「
「そなたが陰陽師でなければ、この場で斬り捨てていたところだ」
海道は明晴の首根っこをむんずと掴んだ。
「出立までに、構え方くらいは教えてやる。……悔しいが、そなたしか姫をお守りできぬのだ。心してかかれよ」
***
弓を射る音がする。
音がする方角は弓道場――そして、そこには――明晴と秋月海道がいた。
海道は明晴に怒声を浴びせながら、どうやら弓の指導をしているところらしい。明晴は体を動かすことが苦手で、城で信長に誘われた時は土下座をするほど拒否していたのに。
(……明晴、楽しそう)
初音は、思わず袖をぎゅっと握り締めた。
「おやまあ、姫さま。そのような顔をなさってはなりませぬよ」
背後に近づいてきた声に、初音の背筋は凍り付いた。まるで蛞蝓を額に乗せられたような嫌悪感だ。初音は振り返らぬまま、中年の侍女に呼びかけた。
「
「菫さまには、他の侍女もおります。乙木には、二の姫さまが心配なのです」
乙木の指先が初音に触れた。振りほどきたいと思ったが――それをしたら、また誰かに見られて責められる。そう思うと、怖くてできなかった。
「姫さま。悩みがおありなら、この乙木に相談してみませぬか?」
「結構よ」
初音は、今度こそ手を振りほどこうとした。しかし、乙木は中年の女と思えないほど力が強い。
「姫さまには――乙木だけがおればよいのですよ」
耳朶に、生温かい吐息がかかる。全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。初音はたまらず叫んだ。
「触らないで!!」
乙木は素直に離れた。――口角を釣り上げながら。
乙木は地面に土下座すると、大袈裟に肩を震わせた。
「申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬッ!!」
「ちょっ、乙木……!」
初音が慌てて落ち着かせようとすると、「ひい!」と乙木は一層声を大きくした。
「どうか、お許しを! お許しください、二の姫さま!」
足音が複数近づいてくる。
その中には、乙木の声を聞きつけた下男や下女、そして海道がいる。皆の冷たい視線に晒され、初音は身を固くした。
(あの時と……同じだ……)
火付けを疑われた時と同じ。
心配してくれたのは明晴だけだった。他の者は皆、初音を冷たい目で見ており、皆が初音の有罪を疑わなかった。
(また……わたしが……悪いのね……)
「二の姫さま」
海道の固い声が響く。
「我が母が――此度はどのような不興を買ったのでしょう」
海道は、初音に問いかけているようで、初音を信じていない。当然だ。今、誰がどう見ても、乙木は哀れな女である。
(大事になる前に、謝ってしまえば――)
初音が諦めて口を開きかけた時だった。
「初音!」
人だかりの中を、小さな子どもが割って入ってくる。
「明晴……」
汗だくになった明晴の肩には、紅葉が乗っている。紅葉は初音の肩に乗ると「もう大丈夫だ」と優しく言い、乙木を冷たく見下ろした。
「初音、何があったの? この人に、何かされたの?」
海道と同じ問いだ。しかし、明晴の問いには、海道のような重々しさはない。
初音は思わず涙ぐんだ。
「違うのです」
乙木は嗚咽をかみ殺しながら、「私が悪いのです」と赦しを乞うた。
「姫さまのお体の具合が悪いようで、思わず支えてしまったのです。姫さまの御身に勝手に触れるなど、言語道断。姫さまは大変お怒りになり、私を手打ちにすると仰せに……!」
乙木の言葉は、嘘だ。初音は乙木を手打ちにするなどと言っていない。しかし、触るなと拒絶したのも事実である。
下男や下女は、「ひどい」「乙木さまはよかれと思って」と、初音を批判している。
初音がぐっと堪えていると、明晴が前に進み出た。
「乙木さん、でしたっけ。――それ、嘘ですよね」
明晴の言葉がしんと静まり返った辺りに響いた。だが、すぐに批難に変わる。
「何の証拠があって、我が母を疑るか」
海道も前に進み出る。
「我が母・乙木は――蓮見四郎さまが一の姫の乳母であるぞ!」
「だったら、初音だって、蓮見家の二の姫だ! その人の言葉を聞かずに疑うなんて、その方が罪深いんじゃありませんか!?」
頭二つぶん小さい明晴の背が、今はとても頼もしく感じる。初音の頬を一筋の涙が伝い落ちた。
どんな時も、明晴は初音の味方でいてくれる。
蓮見に残れとひどいことを言うくせに、初音が窮地に立たされると、誰よりも憤ってくれるのだ。
「何の騒ぎだ」
そこへ、
菫姫は、明晴・初音と、交互に乙木・海道母子を見た。
仔細を聞いた四郎は、深々と溜息を吐いた。
「斯様なことで、騒ぐでない。――乙木。そなたは菫の侍女であろう。何故初音に声をかける必要がある」
「恐れながら……二の姫さまには、侍女の一人もおられませぬゆえ、哀れに思えて……」
ごにょごにょと言い淀む乙木に、四郎は溜息を吐いた。
菫姫は初音の方を見た。
「初音、そなたもですよ。貴人の娘たるもの、そのように振舞うものではありませぬ。――父上」
菫姫は四郎に頭を垂れた。
「父上の前で見苦しきものをお見せしてしまったこと、お詫び申し上げます。初音は我が妹。そして、乙木は我が乳母。ここは、この私に任せていただけませぬか」
「うむ――そなたが言うならば――」
「承知致しかねます!」
収拾しかけた場に、異を唱える者がいた。秋月海道である。
海道は地面に座り込んだままの母の肩を抱きながら、菫姫を睨んだ。
「恐れながら、我が母は姫の御為、身を賭してお仕えして参りました! 姫が我が母に狼藉を働いたのは、此度が初めてではありませぬ!」
海道の言葉に、菫姫は顔を顰めた。場を混乱させる乳兄弟に対する苛立ちと、初音に対する「そうなの?」という疑惑の念である。
確かに、乙木の手を振り払ったことがある――その際に転ばせてしまったことも事実。
何も言えない初音に代わり、異を唱えたのは明晴だった。
「初音は、理由もなくそんなことをする人じゃない! 一緒に暮らしている俺が一番よく知っています!」
はあ、と菫姫は頭を押さえた。
「明晴、そなたの気持ちは分かります。しかし――初音。そなた、乙木を突き飛ばしたのはまことですか」
「……それは……」
「なんてことを――」
「もうよい」
四郎が口を挟んだ。
「そなた達に任せていては埒が明かぬ。――此度の一件は、天の采配に任せよう」
天の采配――明晴が首を傾げると、四郎は「火起請にて決着をつけさせる」と宣言した。
「火起請?」
首を傾げ続ける明晴に、四郎はうなずいた。
「明日の晩、伊吹山の麓にて火起請を行う。代表として、乙木の代わりに海道がすることを許す。初音、そなたも代役を立ててよいぞ」
「そんな!」
初音は青くなった。火起請の代理人なんてやすやすと頼める相手はいない。
「なら、俺が初音の代わりにやります。その『火起請』。もし俺が秋月さまに勝利したら、初音を二度と疑わないでください」
「よかろう。その代わり、海道が勝ったら、そなたにはそれ相応の報いを受けてもらうが、それでもよいか? たとえ御屋形さまの配下の者といえ、蓮見の了見には従ってもらう」
火起請のことは、明晴には分からない。だが――ここまで初音を愚弄されては、黙っていられなかった。
「お前……何考えてんだよ……」
初音の肩の上で、紅葉が前足で頭を抱えている。
「紅葉――火起請って何なの?」
「熱した鉄の棒を握ってやる、運試しだよ」
「え」
「……腕が動かなくなっても知らないからな」
紅葉は地面にひょいと降りると、明晴を置いてすたすたとどこかに行ってしまった。
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