六、

 同じ体勢を取り続けていたせいで、体が痛い。今夜だけで何度目か分からない寝返りを打つと、顔の前で紅葉こうようが鼾を掻いている姿が目の前に入った。

 主である明晴あきはるが眠れていないのに、紅葉は絵に描いた猫のように、くうくうと寝息を立てている。明晴は腹ばいになると、紅葉の耳を指先で突っついた。丸い耳は、ぴるぴる、と動いて止まる。もう一度突っつくと、同じように、ぴるぴるっ、と動いた。

「……遊んでんじゃねーぞ」

「あ、起きたの」

「あんだけ触られてれば起きるわ」

 紅葉は起き上がると、明晴の手を振り払った。

「そんなに怒らないでよ。なんだか、寝つけなくてさ」

「また初音はつねと喧嘩したのかよ」

 紅葉は後ろ足で耳を掻いた。

「喧嘩なんか、してない」

「嘘吐け。あんなに気まずそうな顔しておいて。さっさと謝っちまえ。女なんか、櫛のひとつも買ってやれば機嫌も直る」

「そんな金ないし。……ていうか、本当に喧嘩なんかしてないよ」

 そもそも喧嘩をするような関係ではないのだから。

 明晴が胡坐を掻いていると、紅葉は明晴の膝に乗り上げてきた。何も言われないのをいいことに背中を撫でる。以前より柔らかい毛並みなのは、初音がよく梳いてくれているからだ。蓮見に来る前も、桶に放り込まれて洗われていた。いい匂いになったと初音が喜ぶかどで、紅葉はぷりぷり怒りながら、せっせと毛繕いしていた。

 あの日常が戻ってくることはない。明晴は紅葉を抱き上げて白黒の縞模様に顔を埋めた。



 ――ズズッ、と地を這うような音が響く。



 明晴ははっと顔を上げた。紅葉も同時に明晴から離れ、床に降り立つ。

「今の音って――」

 紅葉が「臭う!」と叫びながら部屋を飛び出した。明晴も寝間着のまま廊下に飛び出す。


 暗闇にまぎれて、何かが屋敷の中を這いずり回っている。妖気を辿っていると、「きゃぁ!」とか細い悲鳴が聞こえた。菫姫すみれひめの声だった。

「姫!」

 姫の腹心である秋月海道あきづきかいどうが部屋の戸を守っている。だが、海道には妖の姿が見えていない。

(秋月さまでは、姫を守れない……!)

 明晴は九字を切った。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前! ――姫を守れ!」


 明晴の切った九字が視覚化され、海道の目の前に現れる。そしてその結界が何かを弾いた。


「オノレ……オノレ……!」


 地を這うような低い声による恨み言が響いた。

 続けて、別の印を組む。指を組む度に、全身の血がざわめくとともに、妖気が一層濃くなった。

化生けしょうの者か、魔性ましょうのものか、正体を現せ」

 “狐の窓”の隙間から、妖気の渦を覗き込む。その瞬間、明晴は「うげっ」と顔を顰めた。

「何あれ、気持ち悪い!」

「いちいち騒ぐな。ただの百足だ」

「いや、俺の知っている百足はあんな大きさじゃないですけどぉ!?」

 “狐の窓”に映ったのは、確かに百足である――が、蓮見はすみ屋敷を三巻分はできるほど大きい。

「とにかく、さっさと退治するぞ!」

 明晴は懐に突っ込んでいた札を取り出した。

「おー、えらい。寝ぼけた頭でもちゃんと札だけは持って来ていたか」

「やかましいわ! ――急急如律令・呪符退魔!」

 投げつけた札を青白い炎がまとう。炎は空中で光の縄となった。青い縄は大百足を捕らえると、その肢体をきつく締め上げる。

「く……ッ!」

 思っていたよりも、硬い。

 紅葉が余計な口出しをしてこないということは、それほど強い妖ではないのかもしれない――が、妖は妖。ただの百足と違い、体が硬い殻で覆われている。

(ってことは、もう少し――術が必要か)

 明晴は右手で印を組みながら、懐を探った。しかし、札は出て来ない。

「……あれ?」

「……おい、明晴くーん?」

 紅葉の目がすわった。

「どうしたのかな?」

「……紅葉、俺の部屋から、札を何枚か取って来てくれたりしないかなー? なんて……」

「お前、札忘れたの!?」

「忘れたんじゃなくて、一枚しか持って来なかったの!」

「同じようなもんだろ! 俺、今、大百足捕まえるのに必死だから! 護符を取りに戻ったりとかしている場合じゃないから! かといって、他の天将呼んだり術を酷使したりする余裕もないよー!」

 その間にも、大百足は縄を解こうともがいている。その力に圧し負けまいと、明晴は意識を研ぎ澄ませた。

(俺でもできる術……確か、百足退治は……火を使うんだっけ!?)

 明晴は空いた手――人差し指と中指の腹を噛んだ。

(痛いよ~~~~~~)

 涙目になりながら、空中に指を構える。


「我が血こそ贄なり! 火の神よ、我に力を与えたまえ!」


 空中に描かれた文字は――炎の刃の印である。十二天将、癒しの炎を司る火将・朱雀すざくの加護を受けた術だ。

 明晴の目の前に浄化の炎の陣が浮かび上がる。明晴はその陣に血だらけの指を突き刺した。

 陣の中心部から、炎の矢が姿を現す。明晴はその矢に向けて命じた。


「飛べ!」


 炎の矢は、まっすぐに大百足の体に突き刺さった。


「炎ッ!」


 突き刺さった矢から、炎の柱がせり上がる。


「グギャアアアアア」


 大百足から、悲鳴が上がる。明晴はその音を聞きながら、その場にしゃがみこんだ。

 いつの間にか、人だかりができている。菫姫も部屋から出てきており、海道に何があったか聞いているようだった。

「陰陽師どの、これは一体何事か」

 寝巻姿の四郎しろうと、長瀬ながせかたも現れる。初音も仙千代せんちよとともに、遠巻きに出ているようだった。

「もう、大丈夫です」

 明晴は四郎の前に行くと言った。

「姫を狙う悪しき妖は、俺が今、倒しました」

「一体、な」

 鼻高々に自慢する明晴の隣で、紅葉が素っ気なく言った。

「……ん? 一体?」

「百足はなぁ、明晴。母と子で一緒に行動しているんだ。お前が倒したのは、子どもの方だろうな。小さかったし」

「あれで小さいの!?」

「大人の大百足は、金華山とかなら七巻半くらいできるだろうよ」

「き、金華山を……」

 明晴は眩暈を覚えた。

 母と子――つまり、この後に控えている大百足は、母。今倒した大百足よりも更に強いに違いない。

「お、陰陽師どの、如何したのだ」

 怪訝そうな四郎に、明晴は「引き続き一の姫の警護、頑張ります……」とがっくりとうなだれながら呟いたのだった。

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