五、
初音は――
出たところで、何年も屋敷を与えていた、それも母のいない妾腹の姫は、立場がない。侍女達も気を使ってくれているが、どうにも互いに座りが悪い。最近まともに話をしたのは、
だから――この来訪者も、仙千代のことだろうと思っていた。
しかし、現れたのは全く違う人物だった。その姿を見た途端、背筋が凍り付く。
「二の姫さまったら、格子も開けずに……これでは陰の気が溜まってしまいますよ」
「……
菫姫の乳母――そして、秋月海道の母である。長瀬の方の筆頭侍女も務める乙木は、初音が来てから、毎日のように初音のことを世話していた。
傍から見れば、ろくに親族に顔も見せない姫を気遣うよき侍女頭に見えるだろう。だが――初音は、どうにもこの侍女が苦手だった。
(昔は、そんなことなかった。でも……この人は……気持ち悪い)
耳を塞ぎたいのを堪えていると、乙木は「おや」と顔を覗き込んできた。真白く塗った白粉と、赤い紅の唇。その隙間から、異常なほどの甘ったるい香のにおいが漂った。
「お顔の色が悪いですよ。よろしければ、薬湯を――」
「いらない!」
初音は乙木を突き飛ばした。その瞬間、御簾が勢いよく払いのけられる。
「何をしている!」
「ああ、海道……気にしないでおくれ。母が悪いのです。二の姫さまのご不興を買ってしまたから……。二の姫さまは、一の姫さまの乳母である私のことがお嫌いなのじゃ」
「違……っ」
「姫、何が違うのです」
海道の冷たい眼差しが初音に突き刺さる。
(何も……違わない)
海道が見たのは、罪のない母親を、癇癪を起こした妾腹の姫が突き飛ばした光景だ。
それに、初音が突き飛ばした理由にも、何ら正当性はない。「言いようのない嫌悪感を覚えたから」なんて、身勝手にもほどがある。
初音が黙り込んでいると、海道は聞かせるような、深いため息を吐いた。
「母上、参りましょう。そしてどうか、二の姫さまには二度と近づかれませぬよう」
「そういうわけにはいかぬ。それでは、姫のお世話をする者がいなくなってしまう」
「とにかく、別の侍女に任せればよろしいかと。――このままでは、御身に危険が及ぶだけゆえ」
海道の目を見られない。だが、老いた母を理不尽に攻撃した初音を見る目が優しいものなわけがない。
(……海道は、
早く岐阜に帰りたい。やはり、ここに居場所はないのだ――と、改めて実感する。
海道達が立ち去ると同時に、何かが割れる音がした。慌てて首元を見ると、明晴からもらった数珠にひびが入っている。
「どうして……」
やはり、菫姫に迫っている脅威の影響だろうか。だが、今壊れるのは幸先が悪い。
(
初音は数珠を外すと、袖の中に隠した。
岐阜に戻ったら直さなければならない。岐阜に戻れたら――初音は脇息に伏せながら、涙をぐっと堪えた。
また御簾が揺れた。
「初音……姫。少しいいか……いいですか」
御簾の影から覗いてきたのは、明晴だった。
「明晴……!」
初音は思わず立ち上がりかけた。
「立たなくていいです。座ってて。……ください」
明晴は苦笑しながら、初音を制した。言われるがまま、座に戻る。
明晴は初音の前に座った。――二間分の距離を開けて。
「……遠くない?」
「そうかな。庶民と蓮見の姫さまなら、こんなもんじゃないの。じゃなくて、このくらいでよろしいかと」
明晴は――初音を見ようとしない。あくまでも、明晴は身分の差を盾にするらしい。
今までだったら、きっと初音は座を降りていたし、明晴も離れた場所に座ることはしなかった。この距離がもどかしくて悲しい。
明晴は、菫姫の件を話した。
菫姫の母・長瀬の方は神職の末裔であること。
その子孫である菫姫は先祖返りをしていて、強い霊力を持っていること。
それゆえに、菫姫を妖が狙っていること。その害は初音にも及ぶかもしれないこと。
明晴の言葉に、初音は目を見開いた。
菫が霊力を持っているなんて知らなかった。ましてや紅葉が見えることも。
(紅葉が見えるのは……わたしと明晴だけだと思っていたのに)
岐阜にいる者は、皆霊力が低い。だから、ずっと初音だけが明晴の秘密を知っている気分だったのに。
胸の中が熱くて、痛い。初音は眉間に皺が寄らないよう、懸命に努めた。
そんな初音を見ながら、明晴は呟いた。
「数珠……」
「え?」
「いえ、なんでも。……姫のことも、もちろん俺がお守り致します。どうか、ご心配なさらず、これからも蓮見家に住んでください」
「……は?」
初音の目の前が真っ暗になった。
「此度の件が終わった後、屋敷には結界を張っておきます。今後、妖達が屋敷を襲うことがないように、強い結界を」
「だからと言って、どうしてわたしが岐阜に戻れないという話になるのよ」
この屋敷に初音の居場所はない。本当は今すぐにだって、初音は家に帰りたいのに。
明晴と暮らす、あの家に。
しかし、明晴は「だめだ」と首を横に振った。
「初音には、あんな家は相応しくない」
「相応しいかどうかは、あなたが決めることじゃない! わたしがどこにいたいかは、わたしが決めるわ!」
初音が叫ぶと、明晴は「だめだ!」と、更に大きい声を出した。
「俺は――もう初音と一緒にいたくない」
明晴の言葉に、初音は目を見開いた。
“あの日”のことには、何か理由があったのだと思っていた。もし、明晴に寄り添えるなら、その時が来たら寄り添いたい、とも。
(でも、深い理由がなかったら……?)
初音が乙木を拒絶したように、明晴も、ただ初音だから拒んだのだとしたら。
初音は押し黙ると、目線を下げた。明晴の袴しか目に入らない。
(どうしてこんなことになってしまったんだろう)
視界から、明晴の袴が消えていく。御簾が開く音と、遠ざかる足音を聞きながら、初音はあの家ではじめて料理がうまく行った日のことを思い出していた。
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