八、

「坊や、可愛いねぇ」

 襟を破かれる。

 甘ったるいような、生臭いような臭いがする。明晴あきはるが逃げようとしても、大人の力に勝てるわけがない。衣を剥ぎ取られ、自分で触ったことのないような場所をまさぐられる。

(いやだ)

 明晴がもがいても、相手は力を緩めることはなかった。

「可愛いから、いいことしてあげるの。いいでしょう」

 いいわけない。なのに、相手はそれが明晴のためだとでも言うように、好き勝手に体に手や舌を這わせた。


(厭だ)

(そこに俺の意志なんてない)

(触らないで)

(誰も、俺に――)


 気づくと、手には見覚えのない紙が握られていた。


(そうだ――俺は、弱くない。もう、誰にも……誰にも俺を好きになんてさせない……)


 明晴は、女の喉元目がけて叫んだ。


「――斬ッ!」


◇◆◇


 微睡みの中、人の気配を感じる。反射的に腕を動かしていた。


初音はつねどの!」


 その叫び声に、明晴は目を開いた。同時に、風の刃が飛んで行った。刃は御簾を斬り裂いた。――初音の白い頬を通り抜けて。

 初音は驚きのあまり、眼を皿のように丸くしながら、仙千代せんちよの胸に倒れ込んでいる。恐らく仙千代が咄嗟に庇ってくれたのだろう。そうでなければ――明晴は、間違いなく初音を――。

「明晴……」

 初音の手が伸びてくる。白い指先――明晴はその指先を無意識に払いのけていた。


「触るな!」


 廊下から、足音が聞こえてくる。

(ああもう――そんな騒いだら、人にも聞こえちゃうよ……隠形の意味ないじゃん)

 次の瞬間、紅葉こうようが息を切らして現れた。壊れた御簾を踏みながら、紅葉は明晴の傍に膝を突いた。――初音達から、明晴を隠すように。

「明晴」

「紅葉……俺……」

「大丈夫だ」

 紅葉は明晴の肩に両手を置いた。掌の重みを感じると、明晴の目頭は熱くなった。

「お前はまだ、誰も殺していない」

 そして、紅葉は、固まったまま動けない初音を振り返った。

「初音。今しばらく――席を外して」

 初音はゆるゆると首を横に振った。

「いや。明晴を、置いていけない……」

「……そこに、明晴の眷属がいるのか?」

 仙千代が眉間に皺を寄せる。見えないなりに、初音の様子を見て何か察したらしい。仙千代は初音の腕を掴んだ。

「初音どの、行こう」

万見まんみどの、でも、明晴が……」

「まだ分からないのか」

 仙千代は、明晴を見ないまま言った。――その表情には軽蔑と恐れを含んだような――明晴に対する拒絶の色が含まれている。


「今の初音どのと明晴を、同じ部屋に置くことはできない」


 仙千代は、立ち上がろうとしない初音の腕を無理やり引いて立たせると、部屋を出て行った。明晴のことを振り返った気配は、一度もなかった。

 一方、初音は何度も明晴を振り返っているようだった。しかし、彼女の顔を見ることが怖い。足音が消えなくなるまで、明晴は顔を上げることはできなかった。


(……やってしまった)


 明晴は両手で顔を覆った。

 悪夢を思い出して――市井の人を殺めそうになった。それも、初音を。紅葉は「お前のせいではない」と慰めてくれたが、素直にそうだ、と言うことなどできはしない。

 つん、と鼻を刺す独特の臭いがする。布団の脇には、割れた茶碗が転がっていた。どうやら初音が薬湯を運んでくれたらしい。よかれと思ってくれたのだろうに――その優しさを踏みつけにした挙句、明晴は初音の命を奪いそうになった。

「どだい無理な話だったんだ」

「明晴……?」

「俺が、人並みの幸せを、なんて」

 あわよくば初音と一緒に、普通の人の暮らしをしたい、なんて。それがいかに思い上がった、図々しい発言だったのか思い出す。


(この一件が終わったら――信長のぶながさまに、お願いしよう。岐阜を出て行きたいって)


 明晴は、拳を握り締めた。ずっと願っていた幸せを自分で壊してしまった。己の弱さが情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。その日は一晩中泣き明かした。

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