六、

 昨日も思ったが――金山の市場はとても賑わっている。

 初音は櫛を覗き見ながら、「わあ」と声を漏らした。鶯と梅の絵が彫られた意匠で、なんとも可愛らしかった。

「初音どの。早く店に行かないと」

 仙千代に窘められ、初音は慌てて衣を被きなおした。

 初音と仙千代が目指しているのは、金山湊。


 美濃金山に行けば何でもそろう。

 そう言われる由縁は――金山にある豪商・松野屋にある。

 松野屋は、近隣の商人達の商品を代わりに売買してやったり、馬を貸してやったり、南蛮の商人にも通じて居たり――と、とにかく手広く商売をやっている。

 嫁入り道具から、小間物に至るまで何でも扱っている松野屋なら、薬なども持っているのではないだろうか――と、初音は踏んだのだった。


「明晴の容態は、まだよくならないのか?」

 仙千代の問いに、初音は俯くようにうなずいた。

「明け方までずっと魘されていて……。あまり眠れていないのだと思います。今朝からひどい熱を出していて」

「明晴の傍には、誰が?」

「紅葉――十二天将の白虎さまが控えています。だから、大丈夫」

 仙千代は山を振り返った。


 美濃金山五万石。

 故・森可成の子、森勝蔵長可が治めるこの町は、先代の頃より更に豊かに発展している。

 信長は、まだ若輩の勝蔵を気にかけており、その視察も兼ねて仙千代を同行させることにしたようだ。

 だが、町の様子は悪くないし、民も楽しそうに暮らしている。

(今のところは、それほど問題はなさそうだが)

 仙千代は、そんなことを考えながら、初音の隣を歩いた。

「そういえば、万見どのは、『藤の姫』をご存じですか?」

「ああ、風の噂では、少し」

 花の精のごとき絶世の美少女。まだ弱い十一ではあるものの、城主から寵愛され、長じた後には召し上げられるのでは――と言われている、松野屋の一人娘である。

(本当に、森さまは「藤の姫」を妾にするつもりなのかなぁ……)

 森勝蔵は、まだ妻がいない。信長の乳兄弟・池田恒興の娘など、何人か候補はいるらしい。だが、実子がいない以上、若い城主に自分の娘を差し出したい商人や家臣は少なくないだろう。特に松野屋のような豪商なら、娘を通じて城主の後ろ盾を得たい――と思っても自然である。


「本当に綺麗な姫でした」

「初音どのより?」

「わたしなんて、とてもとても」

 初音は謙遜するが、仙千代からすれば、初音より美しい少女に会ったことはない。

 母が神に仕える玉依姫であり、その母が仕えていたのは、日本の女神で最も美しいとされる木花咲耶姫命だ。人の子でありながら、生まれ持った神気を帯びているのも影響しているだろうが。

「まあ、初音どのは性格がなぁ……」

「なんですって?」

「いや、なんでも」

「でも――明晴はやたらと、姫に対して攻撃的な言動をしていたんです」

 たまたま家柄に恵まれていただけ、とか。

 顔だけで決めつけるなんて、とか。

 特に、姫を人形のごとく見せつけている松野屋の主人に嫌悪感を示していた。

「万見どの――明晴の出自は知っていますか?」

「似非陰陽師」

「いえ、そうではなくね……」

「たぶん、私が知っていることと初音どのが知っていることは、同じくらいさ」

 仙千代は明晴とそれなりに親しいつもりだ。しかし、だからと言って全てを知っているわけではない。この先も、明晴が仙千代にすべてを明かすことはないだろう。

「私にとって一番大切なのは、この先もずっと御屋形さまおひとりだ」

「…………」

「もし明晴が御屋形さまに仇をなすとなれば、私は迷わず、明晴を斬り捨てる」

 信長の近習筆頭として、譲れない決意だった。

「だが――それは私の決意だ。初音どのに強いる気はない」

 初音は蓮見の姫ではあるものの、ほとんど勘当されているようなものだ。

 初音が家に縛られる必要はない。誰にも縛られず、大切な人と一緒にいたらいい。

「……万見どの。その言い方では、御屋形さまがお可哀そう」

 初音はくすくすと笑った。

「まるで、御屋形さまに縛られることを望んでおられるよう」

「そうかもしれない。――私は御屋形さまに、一生お仕えしたいと思っているから。あの日、拾っていただいてから」

「……よかった。御屋形さまは繊細だから、渋々お仕えになっていると知ったら、きっと拗ねてしまうわ」

 初音は笑いながら、松野屋の門をくぐった。店の印なのだろうか。松の絵が刺繍された暖簾が下がっていた。


「御免」


 仙千代が声を上げると、女が姿を現した。

「いらっしゃいませ」

 女は仙千代と初音を交互に見た。初音は思わず固まった。その女は――あまりにも美しかった。

黒曜のような輝く黒髪に、真珠のような肌。勝気に結ばれた珊瑚のような真っ赤な唇。なにより目を引いたのは、夜空のごとく輝きに満ちた、丸みを帯びた双眸である。


(こ、こんな綺麗な人がいるなんて……)

 初音が固まっていると、仙千代が背中を叩いてきた。はっと我に返り、初音は「薬が欲しいのですが」と言葉を発す。

「連れが病に苦しんでいて……薬湯もろくに飲めないのです。何かありませんでしょうか」

 女は「なるほど」と口元に手を当てた。

「少々お待ちいただけますでしょうか。お品をお持ち致しますので、よろしければ奥の方へ。生憎、主人は不在ですが」

 女は、初音と仙千代を奥の間に通した。

 焚き染められた伽羅の香、掛け軸。几帳や座の彩り。

 少し離れた場所からは、子ども達の声が聞こえる。心地よい音色に耳を澄ませながら、初音は何が来るのだろう――と待った。

(少しでも、何か食べられるものがあればそれに越したことはないけれど……)

 けれど、根本的な解決にはならない気がする。

 明晴の病は、紅葉が言うような「めんえきのていか」だの「ていこうりょくがおちた」だの、そういうものが理由ではない気がする。明晴が抱えた心の闇を解決しなければ、同じことを繰り返すだけの気がした。

(でも……わたしにできることなんて……)

 初音がうつむいていると、かたん、と物が倒れる音がした。

 仙千代は初音を庇うように立ちはだかった。勢いよく戸を開けると、童女が尻餅を突いている。年の頃は十歳前後。その娘に、初音は「あ」と声を漏らした。

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