四、

 明晴の額の手ぬぐいを取り替えながら、初音は薬湯のにおいを嗅いだ。宿所の者に頼んで用意してもらったが、まだ飲むのは難しいだろう。

 仙千代は反対側に座りながら、「移動は難しいかもしれないな」と言った。

「父は、なんと?」

「明日、朝一番で出立すれば、蓮見の領地にたどり着く。だが、明晴を無理に動かしては、元も子もない。特に此度は視察ではなく、蓮見の一の姫の様子伺いだから、明晴なしで進めない」

「そうね……」

「だけど、ここで出立を遅らせたら、明晴は拗ねるだろうな」

 仙千代が苦笑すると、紅葉も「確かになぁ」と同意した。

 仙千代には、変化した紅葉の姿は見えない。だが、意外と会話は成立することもある。初音や明晴には、おかしくて仕方なかった。


 藤の姫を見た時、明晴の様子はにわかにおかしくなった。

 やたらと攻撃的な発言が目立ち、八つ当たりのように棘のあることばかり言っていた気がする。

「私は、蓮見さまのところに行ってくる。初音どのはどうする?」

「わたしは、明晴の看病をしています。何か動きが決まりましたら、お教えくださいませ」

「……初音どのも頑なだな」

 仙千代は苦笑しながら、部屋を出て行った。

「……ねえ、紅葉」

「なんだ」

「明晴は昔、何かあったの?」

「それを聞いて、どうするつもりだ」

 紅葉の声が低くなった。

「……わたしには、言えないのね」

 ならばいい、と初音は話題を切った。

 紅葉は、明晴の眷属だ。だが、無条件に明晴だけを味方することはない。神として、人間に対して公平に接する。もちろん、感情はあるだろうから、明晴に肩入れすることはあるだろうが。

「紅葉が言えないと言うのなら――きっとそれが正しいのよ。わたしが余計なことを言ったわ」

「……お前を信じていないわけではない」

「明晴にとって、知られたくないことなのでしょう」

 一緒に暮らし始めて、もう半年以上経つ。だというのに、初音は明晴のことを知らない。


 流しの芸人。陰陽師。自称・安倍晴明の子孫。


 明晴がどのように生きて、どこから来たのか。本当のことを何も知らない。

(こうして寝顔だけ見ていれば……どこにでもいる、元服前の子どもだというのに)

 首筋に浮かんだ汗を拭ってやりながら、初音は「起きて」と、小声で囁いた。


◇◆◇


 父がいなくなった。食べ物を探しに山の中に分け入ってから、帰ってこなくなった。

「父ちゃん……父ちゃん……」

 泣きながら、童は父の帰りを待っていた。

 父がいなくなってから、五日――どこかで、もう父に会えないことは分かっていた気がする。それでも、頼れないことが怖かった。ひとりぼっちになってしまったことを、認めたくなかった。

 地面に、棒で絵を描いていると、辺りが暗くなった。顔を上げると、見覚えのない男の人が立っていた。

「坊主……一人か?」

 問いかけにうなずく。

「お父ちゃんやお母ちゃんは?」

 首を、横に振る。

「そうか、一人か。うん、そうかぁ……」

 男の人が笑う。

「坊主、お前……可愛い顔してるなぁ……」

 その笑顔が何だか怖かった。童は、肩を震わせながらも、逃げることすらできず、ただ固まっていた。


◇◆◇


 うつらうつらしていた時だった。

「う……っ」

 初音は目を覚まし、明晴の顔を覗き込んだ。

「明晴」

 だが、起きたわけではなさそうだった。

 明晴は眉間に皺を刻み、苦しげに喘いでいる。

「い……やだ……っ来るな……っ」

 妖相手には一切動じない明晴が、魘されている。怯えたように。

 初音は明晴の手を握った。氷のように冷たい手に、自分の体温が少しでも伝わるよう、力を込める。

「明晴……大丈夫よ……わたしがここにいるわ」

 明晴から返事はない。

 一体、この子はこれまで、どのような経験をしてきたのだろう。

 まだ14歳。人によってはようやく元服するかどうかという子どもなのに。この子には誰も守ってくれる人がいなかったのだ。

 初音は日付が変わっても、ずっと明晴の手を取って温め続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る