2、藤の姫

一、

じりじりと照り着くような日差しに苛まれる。首筋にはじっとりと汗が浮かび、明晴あきはるは顔を顰めた。まだ夏には早いというのに、今日はやけに暑かった。

 首筋を拭いていると、水筒が渡された。仙千代せんちよは、「もうすぐ、今日の宿所に着く。頑張れ」

 そう言い、仙千代は先頭を歩く蓮見四郎はすみしろうを追いかけた。

 仙千代は疲れなど知らないらしい。

(か弱い俺には真似できないなぁ)

「……か弱いんじゃなくて怠け者なんだろ」

 明晴の思考を読んだかのように、紅葉こうようが言う。明晴は一瞬立ち止まると、紅葉をそ……っと川に流した。


 ***


 朝一番に岐阜を発ったというのに、宿所に辿り着いたのはとっぷりと日が暮れてからだった。

 今日の宿は、美濃金山みのかねやま城の麓の‪寺である。

 明晴は荷解きをしながら倒れ込んでいたが、仙千代は違った。

「……元気だね、仙千代」

「明日以降の旅程を、蓮見さまと打ち合わせしてくる。お前は休んでおけ。恐らく出立は明後日とかになると思うが、気をつけないと足の筋をやるぞ」

 仙千代は明晴の口に丸薬を置いた。

「元気が出るぞ。あまり美味くはないがな」

 明晴は、赤い丸薬を舌に乗せた。本当に美味しくはなかったが、目や口が顔の中心に寄るほど苦かったため、確かに元気だけは出た。


 御簾が揺れた。紅葉が動いているのが視界の端で伺える。川に流したせいで不貞腐れているから散歩にでも行くのだろうか──と思っていたら、どうやら来客が来たためらしい。

 初音はつねだった。

「明晴、少しいいかしら」

「……どうしたの?」

 明晴は訝しく思いながら、御簾を上げた。


 薄暗い月夜の光に照らされ、初音の翠玉の双眸が煌めきを増す。


 初音は周囲を見渡してから、明晴達の部屋に入った。入るなり、明晴の手から御簾を奪い、閉じ直す。どうやら、余程聞かれたくない話があるらしい。

 家を出る時、初音は下げ髪の毛先を丸めて束ねていたが、今は特に結ばず、背中に流していた。こうして見ると初音はやはりお姫さまなのだ──と明晴は感動する。たとえ妾腹といえども、本来なら明晴は顔を見ることもできない相手なのだろう、と。

 そんな初音は、手に手紙を携えていた。

「明晴、怒ってる?」

「え、なんで?」

「わたし、今回無理矢理同行させてもらったから」

 確かに、初音が「一緒に行く」と言い出した時、困ったのは事実だった。


 初音の亡き母は、木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことという女神に仕える巫女──玉依姫たまよりひめを勤めていた。初音も母の血を受け継ぎ、心霊や妖、あるいは悪しきものを利用しようとする者に狙われやすい。

 だから、できることなら岐阜にいてほしかった。岐阜なら信長のぶながが庇護してくれるだろうし、怪しい者が近づく可能性は減る。


 とはいえ、初音にとって蓮見家は実家である。

 数年ぶりに帰りたいと思うのは、人としては当然だろう。いくら雇い主とはいえ、明晴が無理強いすることもできない。

(護り抜けるのかという不安はあるけど)

 初音が差し出した手紙を広げると、柔らかい、甘い匂いがした。

「伽羅だな」

「きゃら?」

「香の一種だ」

すみれさまからいただいたお手紙なの」

 菫姫──蓮見四郎の嫡女にして、初音の異母姉。

 明晴も一度会ったことがある。顔を扇で隠していたため伺えなかったが、声が綺麗な女性だった。


 手紙には、婚約が破談となった旨が記されていた。


「菫さまに、どうしてもお会いしたかったの。……それに、母さまの日記を持っていてくださったことも」


 蓮見四郎は、初音の母の遺品を全て焼き捨てた。遺体は骨を細かく砕き、川に流したという。だから、初音の母の墓はない。

 理由は分かる。玉依姫であった初音の母の骨や縁の品を残していては、悪しき者に利用されかねないからだ。

 明晴が口を開くと、紅葉が制した。

 四郎には四郎なりに思うところがあった──初音にとっては、蟠りがあるのだろう。

(家族だから、じゃどうしようもないこともあるのかな)

 明晴はぼんやりと思った。

 初音は「ごめんなさい」と呟きながら、俯いている。

 明晴は立ち上がると、御簾を少し捲った。夜空には、満点の星が浮かび上がっている。


「明日はいい天気だな」

 初音も釣られて顔を上げる。真珠のような柔肌に、月の光が降り注いだ。

「仙千代が、出立は早くても明後日になるだろう、って。金山城のお殿さまにご挨拶がしたいんだって」

森勝蔵もりしょうぞうさまね」

 初音がくすりと笑った。

 金山城の領主はどんな人なのかと問うと、初音は柔らかな声で教えてくれた。

「岐阜の若殿さまの与力なの。亡きお父上の後目を継いで、ご立派な城主を務めておいでよ。木曽川を利用して商いを発展させているのよ。噂では、豪商の娘を猶子にしようとされているそうだけど──」

「へえ……美濃って、商いがさかんなんだね」

 明晴はどきどきしながら、紅葉を見た。紅葉は後ろ足で立ち、前足で、まるで拳を握り締めるような仕草をしながら「頑張れ」と囁いた。

「明日、城下を見て歩かない?」

「城下を?」

「買い物とかしてみようよ。……あ、あんまり高いものは買ってあげられないけど……」

 若干しどろもどろになりながら言うと、初音は微笑みながらうなずいてくれた。

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