三、


 ――二つ三つばかりなるちごの、いそぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。



 紙に書き写しながら、初音はくすりと笑みを零した。

 小さな子どもが、掃除したはずの床から埃を見つけて、それを親や家人達に見せびらかす光景が目に浮かぶようだ。

 初音に「少納言」というあだ名をつけたのは、帰蝶だった。

 父は少納言の官位ではない――と言ったら、「そなたのこと」と帰蝶は笑った。


『清少納言のように、聡明で勤勉なそなたを、妾は気に入っておる。その証じゃ、「少納言」』


 普段からそのあだ名で呼ばれていたわけではない。

 しかし、岐阜城に来たばかりの頃は、右も左も分からなかった。母が死したこともあり、自分には帰る場所がないのだと落ち込んでもいた。そんな時に賜った帰蝶の言葉は、初音を強く支えてくれた。

(写本ができたら、奥方さまに献上しようかしら)

 楽しみが増えた――と初音は筆を置いた。

 最初の頃は、家事をしなければと躍起になっていたせいで、こうして書き物をする時間もなかった。しかし、明晴から「家事はできる範囲だけでいい」と提案され、細かいところは明晴が作った式神達がやってくれている。

 ひらひらと動く紙切れが掃除をしている様は、不思議だが可愛らしくもある。

「まるで雪みたい」

 初音は笑みを零しながら、ありがとう、と名もない式神達に礼を言った。


「ただいまー」


 すると、玄関から明晴の声が聞こえた。外を見ると、まだ日は高い。

 初音は前掛けを付けながら、玄関に駆けた。


「お帰りなさい、明晴。今日はいつもより早いのね――」


 部屋を出た途端、初音は固まった。

 玄関には、框をよじ登っている紅葉と、気まずそうに頬を掻いている明晴。なぜかいる万見仙千代はこの際置いておいて――それよりも、その背後にいる人間が問題だった。


「……父上」

「……大きくなったな、初音」


 指先が震える。

 泣いてやめてと縋る初音を突き飛ばして、母にまつわる遺品全てを焼いた男。

 喪が明けるや否や、初音を早々に人質に出し、その後ろくな便りも出さなかった。


 初音は、拳を握りながら、框に上がり切った紅葉を抱き上げた。袂から取り出した手ぬぐいで、白い前足を拭いてやる。

「……明晴、お客様を中にご案内して。お茶のご用意をします」

 初音は父と目が合わないようにしながら、居間に駆け込んだ。


***


 明晴が蓮見四郎を連れて帰って来たのは、訳があった。

 城で、万見仙千代の手習いを受けていた明晴を召しだしたのは、信長に謁見していた蓮見四郎であった。


 てっきり、明晴は殴り飛ばされるのではないか、と思った。


 いくら主命とはいえ、仮にも武家の娘である初音を、明晴庶民が使用人として使っているのだ。しかも一部では、嫁入りさせられた、とまで言われている。

 申し開きの余地もなく、明晴は「一発くらいなら」と殴られる覚悟を決めていた。


 広間に行くと、信長と談笑している男の背が見えた。

 信長は明晴を見とめると、嬉しげに手招きをした。

「四郎。この者が、例の陰陽師じゃ」

「陰陽師――」

 明晴は、緊張しながら、蓮見四郎が振り返るのを待った。


 振り返ったのは、三十も半ばを過ぎたであろう男だった。精悍な顔立ちで、髭が濃い。濃き色の衣を身にまとったその男は、初音とは似ていなかった。


 信長が明晴を紹介すると、四郎は「そなたが初音の……」と、無感情に言った。

 なんとなく詫びを入れたくなったが、詫びを入れる内容も思いつかない。そもそも明晴は詫びなければならないこともないというのに。


 四郎は明晴を見ると、深々と頭を下げた。

「我が娘・初音を救ってくれたこと――深く感謝申し上げる」

「えっ」

 明晴は慌てた。

「か、顔を上げてください! そんなことされるほどの立場じゃありませんって、俺!」

「否」

 四郎は頑なに拒んだ。

「そなたが初音の無実を晴らしてくれたお陰で、初音は生きている。そなたがおらねば、我が蓮見の命運も潰えていたことであろう」

「まこと、面白き童である」

 信長は喉を鳴らした。

「明晴は占いのほかに、十二天将を従えさせたり、妖を退治したりもできる。かの杉谷善住坊を捕らえられたのも、この明晴のお陰よ」

「それはそれは……御屋形さまも、よき縁に恵まれましたな。……そこで、恐れながらお願いしたき議がございます」

「ぬ?」

 四郎は信長に向き直り、平伏した。


「この陰陽師どのを――某にお貸し願えませぬでしょうか」


***


「……なぜ明晴が、蓮見に行くことになるの?」

 初音は、怪訝そうに明晴を見た。

 初音の膝の上では、紅葉が丸くなっている。まるで猫のようだが、こいつ神様なんだよな――と、明晴は呆れるやら、羨ましいやら、複雑な気持ちになった。

「実は……」

 明晴は仙千代をちらりと伺った。

 仙千代がそこから言葉を引き継ぐ。

「蓮見四郎のご嫡女に、怪文書が届いているそうだ」

「ご嫡女、って……。……菫さま?」

 初音が零れ落ちそうなほど目を見開いた。

 四郎は持っていた紙を広げると、初音の前に差し出した。

 そこには、


【我が愛しき女神、いずれ迎えに参る】


 と書かれていた。それも、墨ではない。――獣の血のような臭いがする。

「……何故、このような怪しき文書が、菫さまのもとに」

「分からぬ。だが、宿直の侍女達曰く、誰かが届けたわけではない、と……。姫も、朝になると勝手に枕元に置かれているのだ、と言っていた」

 明晴は手紙を手に取ると、文章をじっと見つめた。

 この手紙自体に、怪しき術があるとは思えない。ただの紙に、血で文字を書いただけだ。呪詛の類ではないらしい。だが、送られている張本人である菫姫や周囲の者にとっては、気持ちのいいものではないだろう。

「初音」

 明晴は、初音を呼んだ。

「俺、何日か蓮見に行ってこようと思う」

「…………」

「この手紙がどうやって姫のところに置かれているのかも気になるし……。もし、菫姫に何かあるなら、お守りしてあげたいんだ」

 もちろん結界はきちんと張ること、心配なら十二天将の誰かを警護につけることなども伝える。

 だが、初音から返ってきたのは、「一緒に行く」という言葉だった。

「ちょ、何言ってるんだよ」

 明晴は顔を顰めた。

「遊びで行くんじゃないんだよ」

「分かってるわ。でも、蓮見はわたしの故郷でもあるのよ。地の利がない明晴に、何ができるのよ」

「あのなぁ。地の利がないのは初音も同じだろう。何年も帰ってないくせに。それに、今回は仙千代も同行するんだ」

 此度の蓮見来訪は、信長の命令でもある。

 信長は善住坊の一件もあり、呪詛に対する警戒を深めていた。もし身近に呪詛をくわだてるような者がいないか、探るためにも明晴と仙千代を遣わす、と言われている。

 しかし、初音からは繰り返し「厭よ」としか返ってこなかった。

「わたしも行くわ。だめって言ったって行くわ。厭なら、殴ってでも縛ってでも置いていけばいい。もっとも、縛られたら、縄を切ってついて行くけど」

 初音の膝で、紅葉は「諦めろ」と欠伸をした。


「お前、初音に口では勝てねえよ」


 結局明晴が根負けし、蓮見には初音も同行することになったのだった。

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