第9話「間に合え!」

 まだ間に合う、きっとそう、そうだと思わせてほしい……サキは町中を必死で走っていた。あの清崎家に置いてあった文代の手紙……それは遺書だった。

 そこには戦死した父親との家族を守る、という約束を果たせなかった……空襲の日、妹を目の前で死なせてしまった文代の後悔と自責の念が綴られていた。仇を果たせぬことも、毎日のようにあの日を思い出しては苦しくなることも、もう限界だと。全て自分が悪い、自分に価値なんてない、消えてしまいたい……そんな隠された文代の苦悩達がずらりと並んでいた。

 サキは全てを知って、これまでの自分の行いを悔やんだ。何故今まで時が解決するなどと思っていたのだろう、文代を恐れて近付こうとしなかったのだろう。そこまで追い詰められていたなんて……。

 とりあえず、近所の……文代が行きそうな場所をしらみ潰しに探した。線路、用水路、人通りの少ない場所……どこにもいない。息切れしながら、必死で探す。どこにいるんだろう……。サキが考えられる場所であと残るは……海だ。昨日の雨で少々荒れ模様になっていると予想されていたが、それを抜きにしても、秋の冷たくなりつつある海の中へと入れば……文代の目的を達成することは不可能では無いはずだ。

 急いで浜辺に出ると、文代を探しながら海沿いを走っていく。余裕などなかった。息が苦しくなる。でも、文代のことを助けたい一心でひたすら走って探し続けた。

「……!」

ふと、サキの目にひとり腰のあたりまで海に浸かっている人影が映る。短いお下げの後ろ姿の少女だ。……サキは何かを確信して叫ぶ。

「……文ちゃん!」

そう呼ばれて振り返った顔は……間違いない、文代だった。サキは自分が濡れるのも構わずに海へと入っていく。

「待って!」

「……どうして? なんでここにいるのよ……?」

震え声の文代の声が聞こえていないのか、あるいはそれどころでは無いと考えたのかは分からない。サキは文代に構うことなく水の中を走って追いつくと、その手を掴んだ。

「はやく、早く帰ろ……お願いだから……!」

「……いいの、ほっといてよ、これでいいのよ……」

「よくないよ、ねぇお願い、帰ろう……」

サキは自らの手を振りほどこうとする文代の手を、絶対離されまいと強く握りしめた。

「……放っておいてって言ってるでしょ!」

文代が声を荒らげ、サキの握る力が少し弱まった隙に振りほどいたかと思うと、岸の方へとサキを突き飛ばした。サキはバランスを崩し、海の中へと落ちる。全身びしょ濡れだ。けれども構わず、今度は文代に抱きつき引き留めようとする。

「だめ、行かないで……」

「なんで? なんでそこまでするのよ……! ここに来て突然……!」

暴れて抵抗する文代。水飛沫がバシャバシャと音を立てる。

「手紙を……読んじゃったの、康子ちゃんのことも、文ちゃんずっと一人で抱えてたのも知って、ごめんなさい……ずっと一人にしてごめんなさい……」

サキの声が少しずつ震えていく、冷たい海の水とは違う、暖かい涙が冷えた頬を伝っているのが分かった。

「……やめて、なんで泣くのよ……謝るのよ……」

サキは泣いていた。女学校に入って一度も……それこそ敏子が死んだ時も、空襲に遭った時も、泣いたことは無かったのに。……死んでいた感情が蘇ってきていたのだ。文代はサキが泣いている……ということに気づいた途端、暴れるのをやめた。

「こんなの……独りよがりだって分かってるけど……もうこれ以上……た、大切な人に……消えて欲しくない……」

鼻をすすりながら、まともに声を出すこともままならないような状態で訴えかける。サキはこれまで空襲で、戦争で失った大切な人達の事を思い出していた。生き延びた文代が自ら命を絶とうとするのは、サキにとって耐え難いことだった。

「……そんな、そんなのずるいじゃない……そんな風に言われたら……」

文代の目からも熱いものが溢れてきていた。二人が啜り泣く音をかき消すように波の音が二、三回鳴った後で、文代が口を開く。

「……ねぇ。私も……私も生きていて良いって、そう思う?」

「……当然だよ」

そう言ってサキは手を離す。二人はゆっくりと、浜辺に向かって歩き出した。


 文代の家まで歩く間、びしょ濡れの二人は周囲から奇異な目で見られていた。だが皆自分のことに必死で、二人に構う暇などないようだ。だが、そんな二人に唯一声をかける者がいた。

「ダイジョウブ、デスカ?」

道を歩いていた米兵の二人組が、あまりにも酷い様子のサキと文代を見兼ねてハンカチを差し出してきたのだった。

「あ……えっと、ありがとう……ございます」

突然のことに固まるサキだったが、なんとか礼を言った。米兵はにいっと微笑むと後ろにいるもう一人の方を向いた。

『パット、君の分もハンカチがあるだろ?それをこっちの子に渡してやってくれ』

『ジョージは相変わらずお人好しだね』

『まぁな!』

米兵同士でなにやら会話した後、声をかけてきた方がもう片方からハンカチをさらに受け取り、 文代に渡した。

「……ありがとうございます」

文代はそう言って米兵に微笑みかける。

「ドウイタシマシテ!」

かつて彼らを仇と恨んでいた文代からは考えられない行動であった……。

 さらに文代の家が近付いた時だ。目の前にひとり、モンペ姿の女性が現れた。

「ふ……文代……」

彼女は文代の母親のハツだった。文代の手紙を片手に持ち、血相を変えて文代を探しに行くところだったのだ。ハツは娘の姿を見つけて泣きそうな顔で駆け寄ってくる。そして文代をきつく抱きしめた。

「お母さん……」

「馬鹿! 自分から死のうとする子がありますか!」

「ごめんなさい……お母さん……私間違ってた……」

「でも、生きててくれて良かったわ……! 本当に心配だった……」

「……サッちゃんが助けてくれたのよ」

「そうなの……。サキちゃん……本当にありがとう……ありがとうね……」

ハツは何度もサキに頭を下げる。サキは慌てて首を横に振った。

「いえ……私は友達として……文ちゃんを助けたかっただけなんです」

「立派なことじゃない……あなたみたいな子が文代の友達で良かったわ……」

ハツは目を潤ませて言った。サキもお礼を言って頭を下げる。

「……こうしちゃいられない。二人ともびしょ濡れだから、早くお家に帰って着替えないと風邪を引くわ! トヨさんには私から説明するわね」

ハツは思い出したように手を叩くと、こう言って急いで文代とサキの手を引いて行った。

 金城家に着くと、トヨとハツの話し合いによって、潮に浸かったからと娘たちを風呂に連れていく事になった。二人は適当に着替えて濡れた服をトヨたちに預けると、一番近くの風呂屋に向かう。


「……」

身体を……頭も含めて全部洗って湯船に浸かる。……思いがけない形での入浴となったが、 まぁ風呂は好きだから良いか、などと考えていた。それに時間も早いからあまり人もいないし。

「こうして一緒にお風呂行くのも久しぶりね」

「……うん」

以前はよく二人で風呂屋に行っていたことを思い出す。警報が増える前だったろうか。増えてからはなかなか都合が合わなくなって行けなくなったのだった。

「ねぇ、あの日のこと……話してもいい?」

「いいよ……でも、話して大丈夫なの?」

「いいのよ、サッちゃんには知っててもらいたいから……」

あの日、七月七日のこと。文代は妹の康子を連れて逃げ惑っていた。母親のハツとは途中ではぐれてしまい、二人で逃げていたのだそう。しかし……途中で康子に焼夷弾が直撃。燃え上がる妹を見て、恐ろしくなり何も出来ずに逃げてしまった……それがずっと脳裏にこびりついている、という。文代は震える身体を何とか押さえつけようとしていた。

「ごめんなさい、まだ思い出すと……」

「……ううん、謝らないで。……話してくれてありがとう」

そう言ってサキは文代の背中をさする。久しぶりに見る文代の背中は、随分とやせ細っているように見えた。さする度、背骨が手のひらに当たる。

「……八月のことも……ごめんなさいね、ぶったりして。酷いことしちゃった」

「気にしてないって、文ちゃん悪くないよ」

「……相変わらず優しいわね」

「……そっちこそ」

そう言って互いに笑いあった。こうして笑うのもいつぶりだろう……二人は親友に戻ったのだ。

「そういえば……今日タヅちゃんが栗をくれたんだよ、文ちゃんにも渡せば何か仲直り……のきっかけにならないかしらって言ってね」

「……それで私のことに気づいたのね」

「そう。……タヅちゃんにも感謝しないと」

「明日から……どういう顔して会えばいいのかしら」

文代は不安そうに膝を抱き寄せた。

「大丈夫、きっとタヅちゃんと峯ちゃんなら分かってくれるはずだよ」

「そ、そうね……でも、まずは謝らなくちゃね」

「うん」

「謝らなくちゃいけない人が沢山いるわ……でもしっかりしないと、これからの為ですもの」

決心を自分で確かめるように頷くと、文代は勢いよく立ち上がった。

「……こうしちゃいられないわね、そろそろ行きましょうか」

「そうだね! 行こう! まずは……甘栗かな」

「サッちゃんってば、ふふふ……!」

二人は準備をして風呂屋から出ると、明日答え合わせをすると約束し、いそいそとそれぞれの家に向かった。トヨに栗の事を尋ねると、栗ご飯にすると言われて、サキは予想こそ外れたものの久々のご馳走に大喜びするのであった。


 翌日。

「八月のこと、そして昨日までのこと、ようやく整理がつきました。皆さん、今まですみませんでした……!」

結局、文代は組の皆の前で謝罪をすることにした。級友たちは突然のことに少しばかり不思議そうな顔をしていたものの、以前とは明らかに違う清々しい文代の様子に気が付き、それを受け入れた。

 もちろんその後、峯子やタヅ子はもちろん、後期級長の二人にも直接謝罪をした。峯子たちの方は文代を抱きしめ、本当に良かったと喜んだ。……サキは、昨日の一部始終を文代から秘密にしてくれと言われていたので、二人は栗の袋でここまで仲直りが出来るものなのか……と不思議に思っていた。が、サキの努力の賜物だろう、と勝手に自らを納得させたのだった。

 そしてお昼時。持ってきた弁当を開けると、量は少ないながらも立派な栗ご飯がサキと文代の弁当箱に入っていた。それを見てお互いニコニコと笑い合う二人。

「……なんだか凄く嬉しそうね、昨日は何があったのかしら」

とすまし顔ながらも二人のことを気にしているタヅ子。

「それは……文ちゃんと私の秘密だから。ねっ!」

「ええ……そうよ、秘密」

「……ま、聞かないでおいてあげましょ」

同じくすまし顔の峯子は、そう言ってタヅ子をなだめた。

「タヅちゃん、この栗凄く美味しいね!」

「そうね、本当に美味しい……!」

サキはご飯をじっくり、何度も噛んで味わいつつ食べた。甘みが口いっぱいに広がって、とても幸せだ。

「ふふ……喜んでもらえて何よりですわ」

「いいなぁ、私も栗ご飯にしてもらえば良かったわ!」

得意げなタヅ子と羨ましそうな峯子。

「そんなガッカリしないで峯子。また来年、取れたらあげるわね」 

「……ほんと? 楽しみにしてる!」

また、四人で笑い合える日々が戻ってきたのだ。サキは皆が生きていてくれたことが嬉しくて仕方ない。これからもきっと皆で歩いて行ける、そう思うとなんだか心が暖かくなるのだった。


 時は流れて十一月。校友会……現在の生徒会に当たる会の役員決めが行われた。しかしサキ達にとってそれはさほど重要ではなく、それより重要なのはこちらの方だった。

「班?」

「そうそう、三つ班があるの。学芸班と、科学班と、運動班。……私は学芸班なんだけれど」

そうサキに対して嬉しそうに話すのは淑子だ。班、というのは現在で言えば部活動。

「ふーん、私はまだいいかな……」

「そっか……でもね、学芸班は十二月に発表会があるんですって! 楽しみじゃない?」

やたらテンションの高い淑子。こんな淑子は初めて見た……気がする。

「へぇ! それは楽しみかも」

「ふふふ……頑張って練習するから楽しみに待ってて!」

「勧誘熱心ね、淑子ちゃん」

そう声をかけるのは文代。

「当たり前さ、班員はいればいるほどいいんだから! ……また他の子にも声をかけに行かなくちゃ!」

そう言って去っていく淑子。その足取りは軽やかだ。

「なんだか淑子ちゃん、前より明るくなった気がするわね」

そう言って微笑む文代。

「そうだね……班っていいものなのかな」

「やたらめったら勧誘してるのはどうかと思うけれど」

「あら、タヅちゃんいたの」

振り向くとタヅ子の呆れ顔があった。となりに峯子もいる。

「でも発表会なんて素敵! 何するのかしら!」

「……峯子ってそういうとこあるわよね」

「……?」

うっとりする峯子に何かを伝えたかったタヅ子だが、上手く伝わらなかったようだった。来たる 発表会、それを楽しみに蓮咲高女の女学生たちは今日も勉学……と農作業に励むのであった。

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